アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

転職

アメリカでの就職-Ⅲ(代行業の廃業)

先週末、僕が運営してきた輸入代行店を閉じることを店のホームページでお客様に伝えた。前回のエントリーでにおわせたと思うが、実は今年3月から人事コンサルをしていたクライアント企業から「来年から社員にならないか」と打診を受け、熟考の末そうすることに決めたのだ。経営企画、人事、法務などを統括する役割を担うことになり、年俸は日本のサラリーマン時代のレベルを回復し、生活はいきなり安定することになる。

 

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201210月あたまに渡米して以来3年強、iPhoneをメインにした代行業は最初は目論見どおり当たったが、2013年以降は日本でのSIMフリーの発売やdocomoiPhone採用に加え、急激な円安が追い打ちをかけてきて、普通に生きていけるだけの需要が見込めなくなった。

 

iPhoneだけではまずいことは渡米後すぐに気付いていた。というかアイディアはかなりあった。何しろ需要のピークは発売から3か月なので、残りの9か月に何をするかを考えるのは当たり前だった。だから様々な工夫は施したが、結局iPhoneの売上が98、そのほかが2くらいの比率だった。

 

その「様々なアイディア」はマーケティング調査の結果絶望的に見込みのないことがわかった。結局アメリカのサプリや薬などの人気商品は、配送業者を安く使える大手に歯が立たないのだ。ウチが3000円取られる重さのものを、大手なら400円で日本に送れるのだから話にならない。競合しない商品をいくら代行しますと言っても、「競合しない=人気がない」のでそんなものを代行してもそもそも売上が立たない。

 

結局2012年の所得を100とした場合、2013年は70に、2014年は50になった。生々しいから金額で書かなかったが、仮に2012年を600万円と考えてみれば、13年は420万円、14年は300万円ということになる。妻も働いているので300万円で生きていけなくはないが、このままでは2015年は30(この計算では180万)を切るのは必至だった。

 

そこで昨年から、正確には2014年に入ってから、何か「新しい事業」を行わなければと検討を続けていた。アメリカ人をターゲットにするジャパニーズカレー屋や日本人で移住を希望する富裕層向けの移住支援会社など、本当に真剣に考えていた。

 

しかし、今年3月に人事コンサルの仕事が舞い込んで「とりあえず1年延命」ということでこれに従事した結果、冒頭の通りクライアント企業で社員になるという選択肢が生まれた。お誘いを受けたのは先月で、熟慮の結果これをお受けすることにしたのだった。

 

 ***

 

代行業それ自体には愛着があり、「お客様とつながっている感じ」を失うのは非常に寂しいし、需要が少ない中でもウチに期待してくれていたお客様に対しては本当に申し訳ない気持ちだ。しかし、一人の生活者として誰にも迷惑をかけず自立して生きていくという当たり前のことを行うには、今回の選択は不可避だったことも事実だ。

 

それにしても、まともに生きていける環境を維持できるという点で、今回51歳でサラリーマンに戻れるという事実はやはり有難いことだった。日本では大学中退で35歳まで音楽家だったというハンデを克服して転職戦線を戦ってきた僕だが、それがアメリカでも起こるとは思っていなかったから。でも起きた。就職や転職に悩んでいる皆さんにとっても発奮材料になるだろうと思う。

 

さて時間だ。これからクライアント企業に行く。年末に人事制度を完全に「納入」するためにまたまた忙しい日々が始まる。

2009年:心機一転カリフォルニアとネバダの旅(番外編)

2009年7月、2年ぶりにアメリカを旅行して戻ってきてから、実験的に代行店をスタートさせる準備を進めた。その過程で販売目的で若干商品を買っておいたりアメリカのイメージ画像が必要になったりしたため、再度11月に4泊6日程度でロサンゼルスに行こうと考えた。

一方同居する義母は僕が会社員に戻らないという決断を受け入れていたのかと思ったが、9月になって急に「不安だ不安だ」と騒ぎ出した(一人娘の母親という立場上、まあしょうがないとは思うが)。結局10月に僕は、代行店を開業することをはじめ、将来的に起業する可能性の模索を今後とも続けることを許してもらう一方、
(口があるのなら)再就職することを約束した。そんな流れで11月に内定が出たが、勤務開始は12月にしてもらい、4泊6日の旅行には計画通りに行った。


2009年11月20日~26日
このような旅だったので、基本的に商業地域しか回らなかった。骨が折れたのは、店のイメージ画像に使うために以下のような写真を撮る作業だった。お店から許可をもらえるとは思えないし、とにかく「写真を撮るな」と表示がないところで人知れず技術を駆使して撮ったのである。


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しかし、僕のような砂漠好きがロサンゼルスにいながらそこに行くのを我慢することは出来ず、ロサンゼルスから2時間半ほどにあるリッジクレストという町まで行って砂漠を愛でてきた。

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多分CA-178号線。こういう景色に出会うたび、今でも心がときめく

そして、またもハモサビーチのビバヒルのビーチハウスに行ってみたのだが、11月の少し寂しげなビーチを散歩していると、何か様相が違っていることに気づいた。

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奥に見えるのが例のビーチハウス 

実はこの時多くの家が売りに出ていたのだ。当然にリーマンショックの影響で、売りに出ている家の看板は「For Sale」だけでなく、「Foreclosure(差押物件)」とか「Short Sale(一言では説明不能)」などの看板がやたらに目についた。上の写真にも納まっていないし、他の写真を見ても撮れてはいなかったが、いやでも目に入るほど多くの売り看板が出ていた

この、リーマンショックによる不動産価格の下落は2012年夏に底を打つことになった。一方日本円は2012年夏ごろは70円台を保ち、ドルに対して過去最強レベルの強さだった。勿論
この当時はそんなことを知る由もなかったが、僕ら夫婦はまさに2012年夏に、今住んでいるコンドを買った。狙ってできることではなく、ラッキー以外の何物でもなかった。

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こうして目的を果たし、あとは帰るばかりとなった。買いつけた商品は持ってきた2個のスーツケースには納まりきらなかったので、入りきれないものは別送品として箱に入れ、帰る前日に日通から出した。そして最後に、グリフィス天文台からの夜景を見て2009年アメリカ旅行の番外編は終わった。

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帰国後、またもサラリーマンに戻ったわけだが、その時の想いを今でも忘れない。僕はこう願っていた。

 起業のことが頭にあるからといって手抜きをするつもりは勿論ない。
 ただ、ドラスティックなくらいでいいから「成果主義の職場」であってくれ。
 論理的整合性のない日本的根性論だけは勘弁してほしい。
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