旅して見えるものと住んでみて見えるものとでは全然違う。それはわかっていた。アメリカで電気やガスなどの公共サービスを申し込んだり管理費や税金の支払いをすることになって、僕は物凄いひどい目に遭った。何もわからないので質問してもレスポンスが遅いし、トラブルが発生しても全然緊急対応しない。

アメリカ暮らしの長い知り合いに相談しても、「まあ大丈夫」とか「焦ってもしょうがない」と言うだけ。今では「日本のサービスのスタンダードが高すぎるから」と思ってこちらも余裕が出てきてはいるが、住みだしたばかりの時はどうなることかと思ったものだ。あまりに問題が多いので、「アメリカ人全体の資質」に疑いを向けることもあった。

しかし、ご近所さんと面識を持つようになると、「アメリカ人は概ねフェアで親切である」という持論は再度補強されることになった。僕のご近所さんは
本当に明るく善良な人しかいないからだ。そして僕は、去年こんな究極の体験をした。

2013年7月、お客様のiphone5の購入に行くところだった。が、ガレージの電動シャッターが故障して
何をどう頑張っても開かなかった。完全に途方に暮れていると、二、三回挨拶を交わしたことのあるだけの老夫婦の奥さんが声をかけてくれた。

事情を説明すると、自分の車を使ってもいいと言う。僕は勿論そこまで甘えるわけにはいかないと
お礼した上で断ったが、彼女は夫の元に許諾を求めに自分の家に行ってしまった。数分後に戻って来ると、「保険の関係で名義人以外が車を運転するのはまずいので、私が乗せていってあげる」と申し出てくれた。

僕は<断ってはいけない>気がして厚意に甘え、Appleストアまでの道を乗せて頂いた。断ってはいけないと思ったのは、彼女が社交辞令を言っているのではないことがわかったからだ。なんの見返りも求めない善意で、困っている隣人を助けたいという気持ちが明快にわかったから、これを断ることは正に欠礼だと思ったのだ。

Appleストアから家まで戻った時、僕はこの女性に礼を述べ「日本酒はお好きですか?是非あなたとご主人に味わって頂きたいのです。今日本にいる
妻が間もなく日本から戻ってくるので、おいしいものを買ってきてもらうつもりです。ただ、戻るのはあと10日後くらいになるので、そのとき御宅にお伺いしていいですか?」と聞いた。彼女は「勿論構わないが、そのようなことはする必要はない。困った時隣人は助け合うものだ」と行って去っていった。

予定より数日遅れで妻が帰ってきて、僕はすぐにお酒を持って彼女の家に伺った。僕が言葉通りに日本酒を持ってきたことにひどく感激してくれた。僕自身は彼女の「無償の行為(厚意)」に比して、たかだかこの程度のことでそこまで喜んでもらったことに申し訳なさを感じながら、「とにかくよく冷やして、美味しい食べ物と一緒に楽しんでみて下さい」と言ってお暇した。数日後彼女に会った時、「本当においしかった。本当に有難う」と言って頂いて、日本流に言えば「義理の貸し借り」が一旦終わった。だが、彼女を始め多くの隣人には「義理の貸し借り」の尺度はないようだ。貸せる時は貸すし、借りる時は借りる。日本人のようにバランスを考えることはないようだ。

僕は東京では総戸数100戸程度のマンション(正確にはコンドミニアム)に住んでいたが、隣人とは殆ど没交渉だった。朝会社に行き、夜遅くに戻って来る生活がそうさせた面もあるし、東京に住む人が一般的にそうであるように僕ら夫婦も積極的に近隣に交わる気はなかった。だからご近所からの親切なども期待していなかったし、自ら親切にしてあげる機会などせいぜいエレベータのボタンを代わりに押してあげる場面くらいだった。

さあ、ところを変えて場所はアメリカ。厳密に言えばロサンゼルスから80km南にある、大都会ではないが決して田舎でもない南カリフォルニアの町だ。ここで僕は「見返りを求めない親切」を受けた。全く想定外だった。同じコミュニティー内に住んでいるとはいえ、新参者の黄色人種を自分の車に乗せてしまう親切が一体どれほど純粋で、しかしどれほど危険であることか。僕には同じことを出来る自信はない。だからこそ、僕が受けた感銘は計りしれなかった。

この女性の純粋な心と親切心を涵養したアメリカという国の懐の深さは素直に評価し、尊敬すべきだと僕は思った。今後これと真逆なことをされることもあるかもしれないが、このような女性がいる国は、全体としてフェアネスを尊ぶ社会であることは明らかだ。だから、僕の「アメリカ幻想」はまだまだ続いて行くと信じている。