アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

西海岸

コヨーテがいる街

ずいぶん久しぶりだ。「ブログを書いている暇なんてない」なんて言う時でも実際そこまで忙しいことは稀なはずだが、さすがにここ数週間は新しい仕事が本当に忙しく、ブログを書いている暇も本当になかった。

 

今日は一旦山場を過ぎたのでこうして書いているが、今月下旬には東京に出張することが決まるなどまだまだ忙しい日々は続く。このままコンサルティング屋としての比重が高まっていけば、いよいよ輸入代行業からのフェードアウトを考えないといけないのかもしれない。

 ** 

 

さて、仕事しているか食ってるか寝てるかというくらいのここ数週間で、ちょっと信じれらないことが起きた。僕が一番仲良くしている近所の若夫婦に昨日久々に会った。一通り世間話をしたあと、旦那の方のキャメロンがおもむろに「悪いニュースがあるんだ」という。

 

最初に思ったのは彼らがとうとう引っ越すという話だ。昨年の今頃「2匹の犬を広い庭で遊ばせたいので少し田舎に引っ越すことを考えている」と言っていたし、いよいよ実行に移すのか、と思ったのだ。

 

僕は冗談ぽく「いやいや、聞きたくないよ」と耳を塞ぐゼスチャーで笑いながら言ったが、彼らの深刻そうな顔に引っ越し程度のことではないとすぐに気付いた。

 

「だとしたら悪いニュースって何だ…?」

 

僕は彼ら夫婦が2匹の犬をそれぞれ抱っこしているのを見て、彼らの飼い猫”ハミルトン”の不在に気付いた。まさか、と思った瞬間キャメロンが言った。

 

「ハミルトンが死んだよ」

 

にわかには信じることが出来なかった。ペルシャとかヒマラヤンの血が入ったぺしゃんこな顔、ひょうきんな動きでコミュニティー内をうろうろ歩き、美形のメス猫の後ろをストーカーのように付いてまわり(彼はとっくに去勢されているが)、犬を散歩させる飼い主に一緒についてまわり、いつもノンシャランとしていたあのハミルトンが死んだ?

 

「いつ?」と聞くと、それは2週間前だったという。僕が仕事でまさにテンパっているときだ。そのころは116時間くらい、外出はおろか窓も開けず、自宅に引きこもって仕事をしていた。

 

「何で?」と聞くと、これが衝撃的だった。

 

「コヨーテに食い殺された」

 

「へ?コヨーテ?どこで?」

 

「ウチのすぐそばだよ」

 

 **

 

僕の住んでいるコミュニティーは、歩いて10分のところに手つかずの自然が維持された大きな郡立の公園がある。そこには確かにコヨーテやボブキャットなどの希少種もいる。そしてたまに、このコミュニティーにコヨーテが入ってくると近所の人が言うのを聞いたが、僕自身は目撃したことはなかった。

 

去年の秋のある晩のことだった。僕と妻でキャメロンの家で夕飯を食べお酒を飲んでダベっていた時、誰かがドアをノックした。日曜の夜9:00ぐらいのことだったので、誰が何の用件だろうと皆でいぶかしく思いつつも、キャメロンが対応した。

 

結局30分ほど外で話をしてからキャメロンは戻ってきたが、訪ねてきたのはこのコミュニティーに住むおばさんで、用件は「あなたの猫をさっき見つけたけど、もう家に入れなきゃだめよ。コヨーテに襲われたらどうするの?」という説教をしにきたとのことだった。

 

僕は笑ってしまったし、アメリカ人がそんな風に干渉してくるなんて結構意外な気持ちがした。でも、猫は気ままに好きなことをするのが「本業」だし、完全な家猫ならまだしも放し飼いの猫を家に閉じ込めるなんてかわいそうだと僕は心底思い、キャメロンには「そんなん、気にしなくていいよ」と言ったし、彼らも「うん、まあ彼女なりの親切心で言ってくれてるとは思うよ。けど僕も気にしてないよ」と言っていた。

 

が、本当にコヨーテに襲われハミルトンは死んだ。僕はコヨーテの危険性を過小評価してしまったことを悔いた(いや、今も悔いている)。コヨーテはいる。僕は目撃したことはないが、いる。もっと人が多くゴミゴミしたLAの方でさえコヨーテは出る。にもかかわらず、その危険性を真剣に考える発想は全くなかったし、猫は自由気ままに好きなことをすべきだと考え、そのおばさんの忠告を一笑に付した。

 

 **

 

僕はハミルトンの日本名の「名付け親」だ。といっても、ハミルトンの発音になるよう漢字で「歯診遁」と付けただけだが。

 

 歯 診る 遁

 (His) Teeth / Checked (by a vet), then (he) Escapes

 

漢字の意味を説明するとキャメロンたちは「獣医に診察されているハミルトンの姿そのままだよ!」と大爆笑した。そのくらい元気で、個性的で、独特の存在感を醸していたのがハミルトンだった。

しかし、健康を害すどころか健康で自由闊達に生きる猫であったが上、そしてそれを是としてコヨーテが出没するような自然を残したこの場所で放し飼いをしていたが上、この悲劇は起きた。
僕らの愛猫の死よりもずっと大きな後悔が残る。

「典型的なオーナー企業」の対極にある企業

愛猫の死からずっと書けずにいたのは、そのショックが大きかったからではない。僕らも猫も頑張ったのは間違いないし、ある意味納得さえしている。要は単純に「新しいビジネス」で忙しくてブログを書く時間がなかったのだ。

 
 ***
 

僕は今コンサルタントをしている。何のコンサルタントかについては詳細は書けないが、何しろご縁があって、ある日系企業の委託を受けて業務を行っている。仕事を進めるにあたっては、この企業のオーナーであるK社長と打ち合わせをすることも無論多いわけだが、K社長の経営者としての人生観や哲学は少し驚くべきものだった。

 

彼は日本の大企業に就職後、志願してアメリカに駐在。駐在終了のタイミングでアメリカで起業して山あり谷ありの人生を送りながら今の企業を成長軌道に乗せた。サービス対象が日本に住む日本人なので、アメリカの会社の社員も殆どが日本人で構成されている。

 

そんな彼が語ったこと。

 

 ・社員の人生観、価値観はとても重要なもので、それを捨ててほしくない。

 ・会社には会社の価値観や使命感があるが、社員はそれに無理に合わせるのではなく、
  自然にシンクロしてもらうのが理想。

 

「会社に人生を賭けろ!24時間戦え!」みたいなオーナーさんにありがちなギラギラした意識がまるでない。社員には働かせてやっているなどというおごった意識もゼロで、むしろ「働いてもらっている」という感謝の気持ちが強い。

 

そんなに社員に感謝するってことは待遇が良くないのかと思いきや、給与や福利厚生のレベルはアメリカの日系企業の中でもトップクラスだったし、ある金曜の夜、7:00PMに働いている社員を見て「週末にそんなに働いてどうする!」と声をかけ、「僕はこれから妻と食事を楽しむから!」と言って帰っていく。

 

僕はこんなオーナーに会ったことはない。

 

日本時代、僕は東証一部上場の大企業から50人規模の小さいところまでオーナー企業に勤めたことがあるし、人事として他の企業の社風やオーナーの発想も知っているけど、彼らはまさに働かせてやっている、給料を払ってやっている、何時になろうが働くのは当たり前、家庭の事情が仕事に優先するなんてもってのほか…そんな風に考えるメンタリティーの人が殆どだった。

 

そんな彼らの「鞭を打って働かせる手法」と、K社長の社員を愛おしんで働いてもらう手法。社員にとってどちらがいいかと言えば後者がいいに決まっている。後者に欠点があるとすれば、そのような職場環境を当たり前に思い、いつのまにか社員が甘えだしたり増長したりすることだろうか。

 

日本人がアメリカで働きたいと思う場合、普通のアメリカ企業で働くのは極めて難しから基本日系企業が就職先の第一候補になるだろう。そしてLAをはじめ大都市周辺には日系企業はそれなりにあるわけだから、皆さんも色々検討する必要があろう。その中で、この企業を就職先として推薦するかと言われれば、僕はもろ手を挙げてお勧めする。

 

会社の名前を言えないのが残念だが、何しろこんな会社もあるのだなぁ。。。

2002年アメリカ西部三州ドライブ旅行(各論1日目)

初日(9/21)
ルート:LAX-(I-405・CA-14・CA-178)->Ridgecrest

16:50、日航エコノミーで成田からLAXへ。同日10:45LAX到着。荷物をとり、イミグレを通過し、ダラーレンタカーのバスに乗り、12:30頃ダラーLAX営業所へ(なお、ダラーは日本にも営業所があり、ここのプランの方が安いことが多いのでアメリカダラーと比較してみて下さい)。
結構待たされた後、赤いクライスラークルーズPTをあてがわれる。とても大きく見えたので「これは予約したミッドサイズのセダンですか?」と聞くもあっさり「そうです」と言われ、これが私たちの足になることに決定。
ブレーキランプがつくかどうかなど非常に念入りに調べてから13:30にゲートを出て一般道へ。はっきり言って怖かった。

ともすれば右に右にずれていく車体を左に戻しながら、後続車に何度かクラクションで脅かされながら、ウィンカーを付けるつもりでワイパーを何度も動かしながらLA都市部を通過すると、目の前には徐々に砂漠が現れる。LAXから1時間半ほども走れば、もうかなり「立派」な砂漠になります。イヤッホー!

near mojave city
LAXから北北東130kmの景色(グーグルアースより)

◆宿泊地、Ridgecrestに
本日の宿泊地、リッジクレスト(Ridgecrest, CA)はLAXから260kmほどなので、理論上時速100kmで走れば2.5時間ほどで着きますが、途中に地図にないような未舗装道路に入ってみるなどの寄り道をしたこともあり、到着は17:00過ぎでした。

この町は人口2.5万人ほどですが、砂漠のど真ん中にある町としてはかなり大きいものです。旅人にとって魅力のあるものは特にないけれど、デスバレーへの玄関口としてここで給油、腹ごしらえなどをする人が多いようです。

◆モーテル、Super 8
 この日に宿泊したのはモーテルチェーン「Super 8 Ridgecrest」。2002年のことなので詳細は記憶にないですが、問題はありませんでした。当時の領収証の住所をググってみると、今ここは「Travelodge Ridgecrest」になっています。ではスーパー8はないのかと言うと、別の場所にありました(Super 8 Ridgecrest)。見た目がきれいですのでまだ新しいのでしょう。こうした
モーテルの運営会社の変更はアメリカでは非常によくあることです。

◆何をした?
デスバレーに行くために通る場所から適当に選んだ宿泊地なので何もしていません。ここのバーガーキングでご飯を食べておしまい。でも、アメリカのハンバーガーは日本のより圧倒的に旨い(と思う)ので、それだけでもかなりハッピーな気分になります。

ところで、私は時差ぼけに中々うまく対応できません。大体夕方5時頃に眠くなり粘って9時頃まで頑張ってから寝ますが、夜中の2時ごろに目が覚めてしまい、そこから眠れないのです。自ら運転する必要のある今回のドライブ旅行でそれではいかんと、この旅では色々と準備しました。

1)飛行機の中ではとにかく睡眠薬で寝る
10:45着なので、その一時間前に起きると9:45。これなら「ちょっと朝寝坊した時間」くらいに起きたことになります。これ、成功しました。

2)真夜中に起きてしまったら、やっぱり睡眠薬で寝る
この日は3:00くらいに起きてしまったので、迷いましたが睡眠薬(半錠)に頼りました。このおかげで朝7:00まで眠れましたので大成功でした。

2002年アメリカ西部三州ドライブ旅行(総論)

やっとドライブ旅行の話を書けるところまで来ました。時は2002年、私はFM放送局で人事・法務をしていました。旅慣れた同僚が「アメリカで車の運転なんて大したことない」と言うし、もう決行するしかありません。

2002年全行程概要
02旅行マップ

旅程と利用サービス/施設関係のデータ

 <旅程>

921

成田⇒LA

LA⇒RidgecrestCA) 
距離:260km
ルート:LAXそばのダラーレンタカーからI-405CA-14 

22

Ridgecrest  Death Valley  Las Vegas (NV)
距離:450km
ルート:RidgecrestからUS-395CA-190NV-160 

23

Las Vegas  King ManAZ)  BarstowCA)
距離:500km
ルート:US-95US-93I-40(途中Route66に乗る) 

24

Barstow  LA
距離:185km
ルート:I-15 

2527

LAとその近郊

28

LA  成田

29

成田着


 <利用施設等データ> 

航空会社

JALエコノミー(往復一人99980円×2)

レンタカー

会社:ダラーレンタカー

車種:クライスラー クルーザーPT(赤)
   ※価格等資料紛失記憶忘却 

モーテル

Date

モーテル名

値段(税込ドル)

9/21

Super 8

64.90

9/22

Travelodge

42.15

9/23

Econolodge

33.00

9/24

Travelodge (ハリウッド)

68.40

9/25

Best Western Ocean View

(サンタモニカ)

241.76

9/26

9/27

Holiday Inn Express (ハリウッド)

90.06


02-1
皮肉にも看板には書いてませんが、「間もなくデスバレー」という場所にいます

移住への憧れが萌芽した旅でした
「砂漠の権化」であるデスバレーに車で訪れたい(というか車以外に実質行く方法がない)と思って企画したこの旅でしたが、LAの都市部を過ぎてしばらくするともう「砂漠」なんですよね。既にその時点で私は十分興奮できました(笑)。

そしてデスバレー近辺を走ってみて、実際の都市と都市の間に横たわる、あまりにも広大な『無』に圧倒されました。荒涼たる砂漠、褐色または鈍い銀色のゴツゴツした岩がむき出しの山々、青空、乾いた空気、対向車の来ない一本道…。飛行機から見たあの風景の中に自分を溶け込ませてみると、あの感動が倍加して、否何十倍にもなって自分を襲ってきました。

そしてLAに戻って都市の環境で旅を楽しむと、この奇跡のギャップがいよいよ愛おしく感じられ、
「LAに住んだら海、砂漠、シティーライフが満喫できるジャン。いいなぁ」と思ったことを覚えています。1995年の旅で飛行機から見た砂漠でアメリカに淡い憧れを抱いてから7年、このとき「移住への軽い憧れ」が芽生えたのです。

では次回は旅の詳細を。 

2000年、またまたロサンゼルスのみ

2000年9月、1998年に続きまたもロサンゼルスだけを見る旅にしました。この時、私はとっくに音楽を廃業し、経産省系の特殊法人で外国人研究者採用事業のスタッフをしていました。既に勤務開始から6か月が経過して有休が取れたのですが、そう長くは取れないし、何しろ西海岸の空気が気に入っていましたのでロサンゼルスにしました。

2000年当時の我ら夫婦のブームはアメリカのTVドラマ「Beverly Hills 90210」でした。この番組にハマるうち、ケリーやドナが住む(設定の)ビーチハウスが実在するのでそこに行って見ようと思っており、実際にこの旅では「90210」のロケ地を巡ってみました(それ以外はとにかく歩いてました)。

00LA
左はケリーが何かの理由でこもったホテル、下はケリーとドナのビーチハウス

ロケ地巡りにはバスやタクシーではなく、旅行会社の現地観光案内の車をチャーターしました。お名前を失念しましたがドライバーは沖縄出身の方で、カセットテープにシチュエーションに合わせた曲を入れて適宜流したり、芝居がかった口上で場所の説明をしたりとなかなか楽しい人でした。

このドライバーさんと話すうち、日本人がアメリカで暮らすために、こういう職業もあるんだなぁ、と思いました。それまではアメリカで暮らすことなど想像したこともなかったので。そして自動車で移動する自由さと快適さがはっきりわかりました。「機」は熟しました。

一応旅程等。

期間

2000923日~930日(68日)

エアライン

恐らくシンガポール

ホテル

ソフィテルとセンチュリープラザ

目的

Beverly Hills 90210」のロケ地をめぐる。あとはひたすら歩いて街の匂いを嗅ぐ。

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