アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2011年にグリーンカードが当たり、アメリカへの憧れに抗しきれずに2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員(人事、法務など)に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。。。面目ない。

移住

アメリカ人は概ねフェアで親切である(2)

旅して見えるものと住んでみて見えるものとでは全然違う。それはわかっていた。アメリカで電気やガスなどの公共サービスを申し込んだり管理費や税金の支払いをすることになって、僕は物凄いひどい目に遭った。何もわからないので質問してもレスポンスが遅いし、トラブルが発生しても全然緊急対応しない。

アメリカ暮らしの長い知り合いに相談しても、「まあ大丈夫」とか「焦ってもしょうがない」と言うだけ。今では「日本のサービスのスタンダードが高すぎるから」と思ってこちらも余裕が出てきてはいるが、住みだしたばかりの時はどうなることかと思ったものだ。あまりに問題が多いので、「アメリカ人全体の資質」に疑いを向けることもあった。

しかし、ご近所さんと面識を持つようになると、「アメリカ人は概ねフェアで親切である」という持論は再度補強されることになった。僕のご近所さんは
本当に明るく善良な人しかいないからだ。そして僕は、去年こんな究極の体験をした。

2013年7月、お客様のiphone5の購入に行くところだった。が、ガレージの電動シャッターが故障して
何をどう頑張っても開かなかった。完全に途方に暮れていると、二、三回挨拶を交わしたことのあるだけの老夫婦の奥さんが声をかけてくれた。

事情を説明すると、自分の車を使ってもいいと言う。僕は勿論そこまで甘えるわけにはいかないと
お礼した上で断ったが、彼女は夫の元に許諾を求めに自分の家に行ってしまった。数分後に戻って来ると、「保険の関係で名義人以外が車を運転するのはまずいので、私が乗せていってあげる」と申し出てくれた。

僕は<断ってはいけない>気がして厚意に甘え、Appleストアまでの道を乗せて頂いた。断ってはいけないと思ったのは、彼女が社交辞令を言っているのではないことがわかったからだ。なんの見返りも求めない善意で、困っている隣人を助けたいという気持ちが明快にわかったから、これを断ることは正に欠礼だと思ったのだ。

Appleストアから家まで戻った時、僕はこの女性に礼を述べ「日本酒はお好きですか?是非あなたとご主人に味わって頂きたいのです。今日本にいる
妻が間もなく日本から戻ってくるので、おいしいものを買ってきてもらうつもりです。ただ、戻るのはあと10日後くらいになるので、そのとき御宅にお伺いしていいですか?」と聞いた。彼女は「勿論構わないが、そのようなことはする必要はない。困った時隣人は助け合うものだ」と行って去っていった。

予定より数日遅れで妻が帰ってきて、僕はすぐにお酒を持って彼女の家に伺った。僕が言葉通りに日本酒を持ってきたことにひどく感激してくれた。僕自身は彼女の「無償の行為(厚意)」に比して、たかだかこの程度のことでそこまで喜んでもらったことに申し訳なさを感じながら、「とにかくよく冷やして、美味しい食べ物と一緒に楽しんでみて下さい」と言ってお暇した。数日後彼女に会った時、「本当においしかった。本当に有難う」と言って頂いて、日本流に言えば「義理の貸し借り」が一旦終わった。だが、彼女を始め多くの隣人には「義理の貸し借り」の尺度はないようだ。貸せる時は貸すし、借りる時は借りる。日本人のようにバランスを考えることはないようだ。

僕は東京では総戸数100戸程度のマンション(正確にはコンドミニアム)に住んでいたが、隣人とは殆ど没交渉だった。朝会社に行き、夜遅くに戻って来る生活がそうさせた面もあるし、東京に住む人が一般的にそうであるように僕ら夫婦も積極的に近隣に交わる気はなかった。だからご近所からの親切なども期待していなかったし、自ら親切にしてあげる機会などせいぜいエレベータのボタンを代わりに押してあげる場面くらいだった。

さあ、ところを変えて場所はアメリカ。厳密に言えばロサンゼルスから80km南にある、大都会ではないが決して田舎でもない南カリフォルニアの町だ。ここで僕は「見返りを求めない親切」を受けた。全く想定外だった。同じコミュニティー内に住んでいるとはいえ、新参者の黄色人種を自分の車に乗せてしまう親切が一体どれほど純粋で、しかしどれほど危険であることか。僕には同じことを出来る自信はない。だからこそ、僕が受けた感銘は計りしれなかった。

この女性の純粋な心と親切心を涵養したアメリカという国の懐の深さは素直に評価し、尊敬すべきだと僕は思った。今後これと真逆なことをされることもあるかもしれないが、このような女性がいる国は、全体としてフェアネスを尊ぶ社会であることは明らかだ。だから、僕の「アメリカ幻想」はまだまだ続いて行くと信じている。

アメリカ人は概ねフェアで親切である(1)

移住前は毎年一回有休を使って1週間から10日くらいアメリカを訪問する程度だった僕。この間アメリカに滞在した期間は合わせて150日前後、移住後1年9カ月が経過したがそのうち4ヶ月は日本にいる・・・。これでアメリカ人を語るなどは早計の誹りを免れないかなぁと自分でも思う。

しかしそれでもあえて申し上げれば、アメリカ人は概ねフェアで親切であると思う。何せ僕はアジア人・日本人であることで何か差別や不利益を受けたことなど一度もないからだ。南部でも、北部でも、西部でも。

まず旅人だったころの例を挙げたい。
2004年、ユタ州のアーチーズ国立公園で、終戦当時広島県呉市と巣鴨プリズンで働いたという元アメリカ兵の兄弟(人種は白人)に、「日本人かい?」と呼びとめられた。それから30分以上彼らは日本での思い出話(東条英機首相をお世話したetc)や戦争観、そして日本を好感しているといったことを語った。

彼らの戦争観や対日観は非常にステレオタイプだったが、日本に好意的なのは明らかだった。日本人の中には戦争当時の敵であるアメリカ人を今も憎んでいる人もいるし、それはアメリカ人も一緒だから、そういう敵意のある人に出会ってもおかしくないのだが、まあ「たまたま」いいベテラン(退役軍人)たちに呼びとめられたのであろう。


2005年。急に雹にやられて仕方なくチェックインしたモンタナ州のモーテルで偶然出会った一家(人種は白人、職業は夫が白物家電の搬入や設置、奥さんは地元のカレッジの事務)と、互いの国や職業について長いこと話をし、最後にメルアドを交換した。

この一家とは今でも交流があるし、2007年にはミネソタにあるご一家の家にお邪魔したほどだ。彼らには日本は「ハイテクの国」というイメージくらいしかなかったが、僕ら夫婦と出会ってアジアに興味を持ち、最近ではインドネシアからの留学生を住まわせたりしている。まあ、こんな善良な一家に出会ったのは「たまたま」であろう。

2006年は、前年に仕事を依頼したミュージシャン夫婦(ミュージシャンの夫は中国系アメリカ人、妻は日系アメリカ人)とプライベートでも仲良くなり、ドライブ旅行の最後にLAに寄った際、二晩も泊めてもらった。ここには2007年にもお邪魔して2泊させてもらっている。まあこれは仕事がらみだから「いい人たち」なのも当然だろう。


2010年はセドナで公園の景観や自然を守っている女性(白人)と、嵐が過ぎた後の超絶な景色を見ながら自然や宇宙の神秘を語り合い、2011年はラスベガスでタイヤがパンクした際は、見ず知らずの親切な青年(黒人)に直してもらいながら、彼のそれまでの人生や今後の夢などを聞き、励ましたりした。彼は前科を持っていて、自分の弱さでその罪を犯してしまったと後悔していた。そしてなけなしの金でLAからラスベガスに「未来を切り開きたい」とやってきた。

まあ「たまたま」いい人に出会って壮大な自然を見ながら話したりすることもあるだろうし、パンクしたりすれば「たまたま」前科のあるいい黒人がやってきて直してくれるなんてこともあるだろう。でも、ここまで「たまたま」がずっと続くんじゃ、それはもう「たまたま」とは呼べないと思う。なので、僕は「アメリカは根本において善良でフェアだ」といういう確固たる一般論的意見を持つことにした次第だ。

僕が最も差別を恐れた出会いのことも触れておこう。
2010年、砂漠地帯を流れるコロラド川のほとりで休憩のためたまたま車を止めたら、釣りをしている白人の親子(父と娘二人の3人連れ)がいた。僕らに気付くなりお父さんのDavidが話しかけてきたのだが、
僕が日本人であることを知るとまずは車のことを話したがった。

「私はトヨタのカムリに乗っているが、君は何に乗っているの?」僕が「いや、車は持っていないよ」というと、彼は「トヨタの国の男が車に乗ってないって・・・?」と驚きでのけぞっていた。また、僕が「会社では人事をしている」と言うと「自分は最近リストラされて、こんな真昼間にサンディエゴからやってきて釣りをしてるんだ」と事情を説明してくれた。そして、リストラ話はやがて彼の「人種観」へと発展した。


「私はメキシコ人とかフィリピン人が嫌いだ。英語も話せないのにアメリカにやってきて安い賃金でアメリカ人から仕事を奪っていく。外国に来て、しかも住むというのなら最低限の礼儀がある。それはその国の言葉を話す努力をすることだ。君は英語を話すが彼らの多くは違う」。彼は明らかに、真剣に怒っていた。

彼の言うことに全面的に賛同するわけではなかったが、彼の言わんとすることは理解できた。そして、彼がアジア人やヒスパニックなどに対してのレイシストだとは僕は思わなかった。何故ならば、彼は外見的にどうみてもアジア人の僕に、自ら話しかけてきたからだ。

彼の考えを聞いて、僕がそれまで嫌な目に遭わないで来たのは「完璧には程遠くとも英語を話すから」なのかと考えた。確かにそれは「出会ってからの好印象」を作り上げるという意味では大事だ。だが、自分が日本人で英語が一応話せると了解されるのはあくまで会話が始まってからなので、それ以前に僕が何者なのか相手は知るよしもない。だからこそ、一般的にアメリカ人は差別的ではないと僕は言えるのだ。

とにもかくにも、「英語を話さない無礼者」という理由でフィリピン人やメキシコ人一般に敵意を燃やすアメリカ人に僕は出会い、これが僕が「差別の匂い」を少しだけ感じた唯一の瞬間だった。

こうしてアメリカを何度か旅するうち、僕はアメリカのフェアネスを信じるようになったわけだが、今後裏切られることは必ずあると思っている。一方で、少々のことで今の意見が変わることもないと思っている。そして僕は、この幻想がこっぱみじんに打ち砕かれるまではアメリカにいたいものだと思いながら、2012年10月にアメリカに移住したのだった。そしてそこで、また凄い人々に出会った。

日本との決定的な違い - 果てしなくいい加減

それまで「アメリカの旅行者」だった僕ら夫婦が「移住者」になったのが201210月。それからこれまで暮らしてきて、日本との決定的な違いに戸惑ったり怒ったり呆れたりしたことが随分ある。勿論「これは素晴らしい!」と感心したこともある。
このカテゴリでは、実際に暮らしてみて初めて見えるアメリカについて書いてみたい。


今回は「アメリカンないい加減さ」について書く。アメリカは日本に比べればいい加減、というのは現代の基礎知識なので移住する前からわかっていたが、移住後の生活インフラを整えるに当たり、問題なくサービスを開始出来たのは日系の携帯電話だけだった。あとは全て、大なり小なり問題があったのである。

以下は移住から45日以内に起きた「アメリカンないい加減」である。慣れない日本人がどれほど困った目に遭ったか、全て完全ノンフィクションなので是非驚いて欲しい。


01)家のプラグ

移住前に事務所兼自宅として購入した1990年築のコンドミニアム。ここの電気コンセントがゆるゆるで、20数個あるうち半分以上がプラグを挿しても普通に抜け落ちる。

02)家のキッチンの水漏れ

シンクから水が普通に漏れている

03)家のトイレ

タンクに水がたまったあと、徐々に抜けて中が普通に空っぽになる

04)前の住人が残してくれた電子レンジ

5分連続で使うと電気が普通に切れる。何故か1時間後に普通に電源が戻る。

 

05)修理業者

上記を修理業者に頼んだが、連絡が無茶苦茶。朝7時前に自動で電話がかかってきて出ると切れる。かけなおすと「そんな電話は知らない」と言われる。しかし同じ番号からまた普通にかかってくる。

 

06)ベッド通販

IKEAのオンライン通販で買ったが、「24時間以内に重要なことがあるから連絡する」とデフォルトで購入確認メールに書いてある。なのに48時間待っても連絡が来ず、メールしても返事がないので近くのIKEAに行ってみると「通販のことは管轄外」と普通に言われる。

 

07)ベッド通販2

「重要なこと」が何だか分からないままいたら、数日後普通にベッドが届く。

 

08)管理費支払い

金曜の夜に管理費をオンラインで支払ってみると、「金は受領したがメルアドに問題があり確認メールが送れない」、とPC画面に出る。メールを入れて確認をお願いする。

 

09)管理費支払い2

翌週月曜になっても返事がない。火曜もない。水曜に普通に「受領しました」とだけメールあり。

 

10)クレカ

アメックスのクレジットカードを作れとCostcoの人に言われて、「経験上言うけどクレジットヒストリーがアメリカではまだないので認めてもらえないですよ」とこっちが言うのに受付のおばさんは「大丈夫よ!」とえらく明るく勧めてくる。トライしてみたが普通に却下される。

 

11)クレカ2

店員がAMEX側に再度「他に方法はないのか」と聞くと、銀行の残高証明をFaxで送ればいいよ、と言われる。実行後2週間待つと、Amexから封書が届く。「今回のお申込は却下されました。もしもう一度お申込みされたい場合は銀行の残高証明を添付し以下の書類をFAXしてください」と書かれている。普通に無限ループに誘われる。

 

12TV・ネット

テレビとネットを使うべく、モーテルからオンラインでA社の75ドルのセットのオーダー手続きを行う。最後の画面で「447ドルのデポジットが必要」と出るので、ナビゲーターに意味を聞くと「アメリカでのクレジットヒストリー等がないと最初にデポジットが必要」とのこと。しかし「このデポジットは返還しません」と普通に言われて画面を閉じる。

 

13)ネット2

テレビとネットのバンドルで89.99ドルのプランをB社にオンラインで頼んだのに、最初の請求書に121ドルとある。オンラインで手続きした際の様子はキャプチャしていたしカスタマーサポートとのチャットも保存していたので抗議したが、普通に却下される。

 

14)車

やっとレンタカーから抜け出し車を買う。HONDAのシビックHYBRID2005年製だが、価格は10000ドルと日本の相場観では信じられないくらい車の市場価値は落ちない。購入当日、スーパーで知らぬ間に車体右側を普通にぶつけられる。

 

15)配送会社

アマゾンなどで買ったモノを配送会社のドライバーが玄関前に普通に無言で置いていく。

 

16)備え付けの食器洗い機

使う習慣がなかったのでずっと使わなかった食器洗い機を使ってみる。するとドアの隙間から普通に泡がワラワラと出てくる。

 

17)火災感知器

ベーコンエッグを焼いていたらいきなり火災警報機が鳴る。その後豚肉を焼いても牛肉を焼いても大丈夫だったので再度ベーコンエッグを焼いたら普通に警報機が鳴る。どういう仕様だ。


いかがだったろうか。このようなことがアメリカでは普通に起こり、何もわからない日本人が一人で一個一個解決していったのであるが、渦中にいる間の不条理感は半端ではなかった。でもまあ、今は「アメリカならこのくらい普通」と思えてしまっているのだけれど。

2000年、またまたロサンゼルスのみ

2000年9月、1998年に続きまたもロサンゼルスだけを見る旅にしました。この時、私はとっくに音楽を廃業し、経産省系の特殊法人で外国人研究者採用事業のスタッフをしていました。既に勤務開始から6か月が経過して有休が取れたのですが、そう長くは取れないし、何しろ西海岸の空気が気に入っていましたのでロサンゼルスにしました。

2000年当時の我ら夫婦のブームはアメリカのTVドラマ「Beverly Hills 90210」でした。この番組にハマるうち、ケリーやドナが住む(設定の)ビーチハウスが実在するのでそこに行って見ようと思っており、実際にこの旅では「90210」のロケ地を巡ってみました(それ以外はとにかく歩いてました)。

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左はケリーが何かの理由でこもったホテル、下はケリーとドナのビーチハウス

ロケ地巡りにはバスやタクシーではなく、旅行会社の現地観光案内の車をチャーターしました。お名前を失念しましたがドライバーは沖縄出身の方で、カセットテープにシチュエーションに合わせた曲を入れて適宜流したり、芝居がかった口上で場所の説明をしたりとなかなか楽しい人でした。

このドライバーさんと話すうち、日本人がアメリカで暮らすために、こういう職業もあるんだなぁ、と思いました。それまではアメリカで暮らすことなど想像したこともなかったので。そして自動車で移動する自由さと快適さがはっきりわかりました。「機」は熟しました。

一応旅程等。

期間

2000923日~930日(68日)

エアライン

恐らくシンガポール

ホテル

ソフィテルとセンチュリープラザ

目的

Beverly Hills 90210」のロケ地をめぐる。あとはひたすら歩いて街の匂いを嗅ぐ。

1993年7月、初めての海外はニューヨーク7日間

初の海外旅行は29歳の時。当時私は、とある大御所女性シンガーがいる音楽事務所に兄と弟のデュオとしてデビューすべく所属していたのですが(弟の方が私で、兄弟デュオのアイディアには全く乗り気ではありませんでしたし、実際その数ヶ月後に私は辞めてしまいました)、そのシンガーがカーネギーホールでコンサートを開くことになり、役得でタダでニューヨークに行く機会がありました。

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ハドソン川・イースト川をクルーズした時の写真。エンパイアステートビルが見えます

ハドソン川・イースト川のクルーズに参加し、7月4日(Forth of July=建国記念日)のお祝い花火を眺め、リムジンで隣接するニュージャージー州のアトランティックシティーに連れてってもらってカジノで遊び、5番街を散策し、John Lennonが住んでいた高級マンション「ダコタハウス」やセントラルパークでJohnを偲び、楽器屋でリッケンバッカーの12弦ギターを購入する・・・全てそれなりに楽しかったし、特にBlue Noteや他のハコで聴いた本場のジャズは鮮烈で大いに感動しました。

しかし、アメリカに憧れを抱かせるまでには行きませんでした。私にとってその種の楽しみは殆ど東京でも出来ることでしたし、食べ物は東京よりまずかったし、たかが1週間いただけでは何もわからないことは承知の上、正直「まあ、東京と同じ感じだな」と思ったのです。今行けば全然違う感想を抱くかもしれませんが、当時の感想は「東京と同趣向の街」でした。

というわけで、パッとしない旅でも「自分のアメリカ史」を構成する以上漏らすわけにいかないため、あえてNY旅行のことを書きました。この2年後の1995年に行ったお仕着せのパッケージ旅行がアメリカへの憧憬が芽生える旅となりました。

御挨拶

私は、この文章を編集し直している2016年10月26日時点で52歳のオヤジです。グリーンカードが当たって、2012年9月にアメリカで妻と暮らし始めました。日本では妻ともどもサラリーマンでしたが、いい歳して全て投げ出してアメリカで暮らすことを選択したのは、簡単な話「アメリカで暮らすチャンス」が手に入ったのに、年齢を理由にそれを放棄する気になれなかったからでした。そんなに強い憧れを何故アメリカに抱いたかについてもこのブログで触れていきたいと思っています。

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 ミネソタ州ブレイナードのメル友宅の庭で本物のライフルを撃つ筆者

渡米以来、私は南カリフォルニアのオレンジ郡に妻と住み、ここで個人輸入代行を行うネットショップを生業にしてきました。特にアメリカ版iphone/ipadのファンのお客様にご支持頂いて何とか生きていたのですが、円安が進む中2015年に廃業を選択し、2016年からは日本時代のコアスキルだった人事・法務・経営企画の統括者として会社員に戻りました。

このブログは2014年の春に書き出しました。理由は、移住前から様々な「アメリカ体験」をしているのに、全然それを書き残してこなかったことがずっと気になっていたからです。そしてそれを日記ではなくブログにしようとする意味は、この体験が役立ったと言ってくれる方が一人でもいれば自己満足に浸れるから、です(笑) それではどうぞ宜しくお願いします。

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