アメリカでも日本でもYoutubeは観れるから、是非英語で検索をかけて頂ければ話が速いのだが、日本のアニメや漫画は各国の言語に翻訳されたり字幕がついている(中には一般の人が字幕を付けているパターンもある)。 例えば僕の好きなデスノートも、英語翻訳版は山ほどヒットするし、人気のものは英語での書き込み数もシャレで済まないほど沢山ある。名場面や面白場面の編集版も沢山ある。

注目すべきは、欧米におもねって作ったのではない日本人の感性での作品が、外国人に共感され、支持されていることだ。そしてそれこそが僕にとって謎の部分だった。

「荒川アンダーザブリッジ」では、(河童の格好を日常的にしている)自称「河童」が村長として荒川河川敷に住む変な集団を束ねているのだが、そもそも「河童」の存在からして欧米人にわかるはずがない。「銀魂」も、ハイテク都市や昔の街並みや新撰組が出てきたり、ストーリーがランダム(行き当たりばったり)過ぎて正直日本人でも理解できない部分はあるはずだが、相当数のnon-Japanese達が面白がっている。

たとえば「銀魂」では、「~アルヨ」という語尾で話す女の子、「かぐら」がゴキブリを発見する。

「たすけて~~!!ヘルス、ヘルスミー!!(health, health me!!」とかぐらが泣きながら叫ぶと、
これに主人公の銀さんが「ヘルプミー、な。うるさい」と修正を入れる。

かぐらは続けて
「シェイプ、シェイプアップ ラン!」と、かつて流行ったマンガのタイトルを(ヘルプミー)のシャレ的に泣きながら言うと、銀さんは今度も「ヘルプミー、な?」と修正を入れる(ちなみに、欧米人には「Shape up, now」と聞きとられているが、マンガのタイトルを知っている日本人の耳には「シェイプアップ・ラン」と聞こえるはずだ)。

さらにかぐらは、タランティーの名作映画のタイトル「パルプ、パルプフィクション!」と絶叫。もはや「Help me」の原形は全くとどめていない。銀さんは「ヘルプミー、な?」とイライラ(?)を滲ませながら再々修正をし、最後に登場した銀さんの弟子のような存在のシンパチがゴキブリを見て「ヘルペス、ヘルペスミー!」と絶叫する。


こんな、日本人でも面白いと思うかわからないシーンに英語の字幕が付けられ、今現在38万の視聴数があり、252のコメントは概ね全てこれを面白がっている。最も多いのは「ヘルペス、ヘルペスミー lol」という評価で、「lol」とは”laugh out loud(大笑い)"の頭を取ったものだ。これはどうしたことなのか。

その理由を知るカギはApple Storeのなじみの店員さんたちとの会話でヒントを得た。彼らの多くは日本アニメのファンで、日本に行きたい、または行く予定、または行ってきた、と言う店員さんが10名くらいいた。その彼らが言うのだ。

1)僕らの多くは、幼少期から日本のアニメを日本製とは意識せずにずっと見て育ってきた。
2)子供だし、アメリカの慣習や文化との差異があることも意識しないで済んだ。
3)中学あたりになると「自分が好きなアニメ」が日本製だと知るが、既に好きになっている
  作品なので、アメリカ文化との差異を発見しても決してそれは不快なモノではない

4)むしろ、好奇心がかき立てられ、肯定的な視点で差異を楽しみ、原点を探りたくなる

これはまさに、僕らが日本の慣習上あり得ないような差異をアメドラの中に発見しながらも、それを興味深く、時にはかっこいいと思いながら観ていたことと同じだと思う。僕の兄などは、女性がブラの上にすぐセーターを着るシーンを昭和40年代に洋画で見て、まさしくカルチャーショックを受けたと言っていたが、肯定的視点が既にある中で鑑賞される映画・ドラマ・アニメ・マンガなどに出てくる自文化にない要素は、新たな肯定的興味を生み出す方向に作用する傾向は強いのだと思う。

こうしてアメリカ人は、幼いころから日本人の感性によるアニメや漫画を見て育ち、多少の違和感さえ興味深い差異と受け止めながら育ち、今や「クール」だと思ってくれている。戦後僕らがアメドラやハリウッド映画を普通に観てきて(一種「観せられた」という側面もある)、自然にアメリカのカルチャーを憧れの眼差しで見てきたのと原理は同じように思える。少なくとも僕はそう見える。