アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2011年にグリーンカードが当たり、アメリカへの憧れに抗しきれずに2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員(人事、法務など)に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。。。面目ない。

ドライブ旅行

2009年:心機一転カリフォルニアとネバダの旅(2)

7/19
この日はビショップからUS-95やUS-6を経てネバダ州道375号線に入り、最終的にはラスベガスに行くつもりだった。NV-375号はアメリカ空軍基地があるエリア51の近くを通っているが、この基地では墜落したUFOや宇宙人の調査研究などをしているという風説が広まっていて、NV-375号は別名「UFO通り」(英語では「Extraterrestial Highway」)と呼ばれていて面白そうだった。

しかし、US-95とUS-6の分岐点で道を間違え、6(東)に行くべきを95(南)に進んでしまった。

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41マイル先のTonopahが分岐点だった。。。

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紫は実際に走ったルート、青は予定していたルート

60kmほど進んで気付いたがもう引き返すわけにもいかず、このまま2002年以来7年ぶりに「真夏のデスバレー」を楽しむことにした。

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7月のデスバレーは、日陰で47℃、日向ならゆうに50℃を越える凄まじい暑さで、吹く風は乾き、肌をサンドペーパーでこするような感触があった。しかし地面には花が咲き、「死の谷」は「生の谷」であることを教えてくれた。体を壊し、失意から立ち直ろうとしていた僕にとって、デスバレーは再起に向けた最高のきっかけを与えてくれた。

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デスバレーを堪能した後、のんびり砂漠の道を走るとパーランプ(Pahrump)という町に出る。パーランプはそれなりに大きな町だが通過すればすぐに砂漠道が復活する。そしてしばらくすると、いきなりラスベガスが眼下に現れる。普通人が住まないだろう酷暑の砂漠に、人間の知恵と欲望を結集して作った街だ。

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僕はラスベガスが嫌いじゃない。ギャンブルはしないのだけど、ここに集まる人たちを見るのが好きだ。何よりデスバレーなど超絶なスケールの剝き出しの自然との対比に心が躍る。

ラスベガスは夜になっても40℃近い気温があったが、汗をかかない(正確には汗はかいたそばから蒸発していく)ので街を歩きまくった。べラッジオの噴水を見たりショッピングモールに行ったりし、深夜12時ごろホテルに戻って寝た。

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2009年:心機一転カリフォルニアとネバダの旅(1)

2007年夏に転職する際、有休を使って行った走行距離11000kmのアメリカドライブ旅行。非常に充実した気持ちで転職してみると、いきなり面接時に合意した職務ではない仕事をあてがわれるは、その年の12月には胃癌が見つかるはで、2007年後半から2008年はさんざんな年になり旅行どころではなかった。

2009年に2月に再度転職したが、そこでもいろいろあった上に5月に身体を壊し、6月いっぱいで退職を余儀なくされた。もう年齢的にもサラリーマンに戻れるなどとは考えられず、内心では外国人をクライアントとする行政書士かアメリカ商品の個人輸入代行のいずれかで独立することを決意した。

辞めると決意すると病の状態は急速に改善し(しがらみを断つ気になると往々にして病は治る)、僕は7月になって2年ぶりに妻とアメリカに行くことにした。状況的に東海岸を回るような大規模な旅は出来なかった一方、病み上がりの僕が実際に行きたいと思ったのは僕が愛してやまない砂漠だったし、輸入代行の対象としてどんな商品があるか、たくさん見て回りたいという狙いもあり、今回は原点に戻ってカリフォルニアとネバダを旅することにした。

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全行程

2009/7/17
成田からサンフランシスコへ。到着後、宿を取っていたサンフランシスコの少し南のある町、ブリズベン(Brisbane)に行き、そこでモーテルにチェックインしようとするとパスポートを落としたことに気づく。航空会社や関係する機関などに電話しようとすると留守電が入っており、利用したユナイテッドエアに届けられていることが分かった。最悪の危機を脱し、この時ばかりは本当に安堵した。

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慌てて電話する僕(を撮る妻の余裕よ)

この日は1日サンフランシスコを観て回った。ゴールデンゲートブリッジとか、ピア39などの定番的な場所のほか、ずっと行きたかったキャンドルスティックパークに行った。ビートルズの「最後のコンサート」はここで行われ、オタクとしては行かざるをえなかった。なお、僕にはサンフランシスコは寒すぎる。素敵な街だと思うが浜風の影響が強すぎ、寒すぎる。サンフランシスコ近辺を移住候補地から除外したのは、その理由一点だった。

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CandleStick Park

7/18
まずはサンフランシスコの南側を海を見つつ進み、Googleを見てからヨセミテを横断し、最後にビショップという町まで行く予定の一日。

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サンフランシスコ ー(500㎞)→ ビショップ

この日の太平洋は霧がかかって何も見えず、早々にGoogleがあるマウンテンビュー(Mountain View)へ。休みで人は居なかったけど、かえっていろいろ自由に見れた。

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Yahooなどネット関連の会社がたくさんあるこのあたりを抜け、I-680、I-205、CA120などを使ってヨセミテへ。

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低地の砂漠から山の緑への劇的な変化はカリフォルニアの醍醐味だ。

ルート通りにヨセミテ(実はシエラネバダ山脈の一部)を観ていくとやがて下り坂になり、下りきるとそこには
モノ湖(Mono Lake)があった。色々な意味で珍しい湖なので今度機会があったらじっくり見たいと思う。

ここでUS-395に乗り100㎞ほど南進し、この日宿を取っていたビショップ(Bishop)で落ち着いた。なお、US-395はおススメだ。機会があれば走るべし。

2007年、アメリカ プチ一周ドライブ(その一)

2014年72日に日本から4か月ぶりに病気の猫と一緒にアメリカに戻り、最初のエントリーは2007年のこの旅行のことにした。

2007年7月4日、前月に転職を決め、次の職場で働き出す前に残りの有休を使って行くことにしたこの旅は、日数21日、走行距離11,000km、間違いなく我が人生のハイライトの一つと言える。次の職場では自分の得意なことをかなりの裁量権をもらってやることができることになっていたし、21日間ただただ旅に集中し堪能出来るなどという機会を得、僕は、そして妻も高揚していた。


この旅はカリフォルニア州サンフランシスコからスタートし、ミネソタ、ケンタッキー、テネシー、アラバマ、テキサス、ニューメキシコなどを回ってカリフォルニアに戻るという道程だった。事前にラフには決めていたけれど、何しろ21日あるのでどこにでも行けるので八割がたノープランで旅は始まった。


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7
4
サンフランシスコに到着し、すぐにレンタカーを駆って一路I-80を東へ。目的地はネバダ州ファロン(Fallon)。サクラメントでUS-50に入り、緑深いシエラネバダ山脈と低標高の砂漠地帯を通過し、アメリカ軍の基地があることでそこそこ栄えているFalllonのモーテル(予約済み)に夕方到着。その時ラジオからかかって今も耳に残る音楽がMaroon 5の「Makes me wonder」だった。このバンドの曲はアメリカドライブに最適。

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US-50で更に東進し、ソルトレイクシティーの南のあるプロボ(Provo)を経て、最終的に予約を取ったモーテルがあるユタ州ルーズベルト(Roosevelt)まで進む。目的はこのネバダ州のUS-50を走ることだった。US-50のネバダ東部部分は「アメリカで最も孤独な道(Loneliest Road)」と言われ、人里から次の人里への間隔が100マイル(160㎞)では済まないほど何もない。なので道フェチとしてここを通らないわけにはいかなかった。いや、素晴らしかった。

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基本US-40を使いデンバーに行く。目的はKazuo。そう、当時コロラドロッキーズにいた松井稼頭央を見に行った。砂漠から緑深いロッキーに入ってデンバーに至る景色はこれまた最高。砂漠の土色が次第に木々の緑に変わり、空の青と澄んだ風に泣きたくなる思いだった。夕方クアーズフィールドで野球観戦。大リーグの雰囲気は素晴らしい。野球を愛している感じが素晴らしい。背中にMATSUIと書かれたユニフォームを着るお客さんが多数いてびっくり。この時松井は確かに愛されていた。試合の結果は覚えていないけど。そうそうデンバーは空気が澄み快適そうな街だった。ダウンタウンを歩いただけだけど。
 
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デンバーからモーテルの予約を取っておいたサウスダコタ州ブルッキングス(Brookings)までの1100km。これは一日の移動距離として最長だった。しかしこの日のハイライトは便意との格闘。のんびりしたコロラド東部のI-76を鼻歌交じりに走っていると徐々に便意が。しかし人里がない。催してる最中に通過した2か所のサービスエリアはともに閉鎖され、淡い期待が裏切られる心理的ダメージに幾度も心折れそうになりながら、結局150㎞以上括約筋を酷使してなんとかネブラスカとの州境の町にあるサービスエリアに辿り着き、事なきを得る。マジで人格崩壊の危機だったのに横でラジオに合わせてノリノリの妻は、僕の苦悶する様子を見て爆笑していた。鬼か。

ネバダ州ノースプラット(North Platte)でUS-83に入り今度は北進。この道もすごかった。牧草とおぼしき草が生え、ところどころ白い岩石が露出する大地を貫く道路は、まるでローラーコースターのように上下する場所が長く続くなど飽きそうで飽きなかった。サウスダコタ州マードー(Murdo)I-90に入り東へ。旅は4日目。時差ボケに弱い僕はまだ睡眠のリズムがつかめず、しかも蓄積した疲れ(排便我慢のアレが特に効いた)で目が痙攣し勝手に閉じてくる。ハンカチを氷水に浸し、それを片目ずつ当てながら、夜8:00にブルッキングスに到着。死ぬかと思った。

アメリカ人は概ねフェアで親切である(1)

移住前は毎年一回有休を使って1週間から10日くらいアメリカを訪問する程度だった僕。この間アメリカに滞在した期間は合わせて150日前後、移住後1年9カ月が経過したがそのうち4ヶ月は日本にいる・・・。これでアメリカ人を語るなどは早計の誹りを免れないかなぁと自分でも思う。

しかしそれでもあえて申し上げれば、アメリカ人は概ねフェアで親切であると思う。何せ僕はアジア人・日本人であることで何か差別や不利益を受けたことなど一度もないからだ。南部でも、北部でも、西部でも。

まず旅人だったころの例を挙げたい。
2004年、ユタ州のアーチーズ国立公園で、終戦当時広島県呉市と巣鴨プリズンで働いたという元アメリカ兵の兄弟(人種は白人)に、「日本人かい?」と呼びとめられた。それから30分以上彼らは日本での思い出話(東条英機首相をお世話したetc)や戦争観、そして日本を好感しているといったことを語った。

彼らの戦争観や対日観は非常にステレオタイプだったが、日本に好意的なのは明らかだった。日本人の中には戦争当時の敵であるアメリカ人を今も憎んでいる人もいるし、それはアメリカ人も一緒だから、そういう敵意のある人に出会ってもおかしくないのだが、まあ「たまたま」いいベテラン(退役軍人)たちに呼びとめられたのであろう。


2005年。急に雹にやられて仕方なくチェックインしたモンタナ州のモーテルで偶然出会った一家(人種は白人、職業は夫が白物家電の搬入や設置、奥さんは地元のカレッジの事務)と、互いの国や職業について長いこと話をし、最後にメルアドを交換した。

この一家とは今でも交流があるし、2007年にはミネソタにあるご一家の家にお邪魔したほどだ。彼らには日本は「ハイテクの国」というイメージくらいしかなかったが、僕ら夫婦と出会ってアジアに興味を持ち、最近ではインドネシアからの留学生を住まわせたりしている。まあ、こんな善良な一家に出会ったのは「たまたま」であろう。

2006年は、前年に仕事を依頼したミュージシャン夫婦(ミュージシャンの夫は中国系アメリカ人、妻は日系アメリカ人)とプライベートでも仲良くなり、ドライブ旅行の最後にLAに寄った際、二晩も泊めてもらった。ここには2007年にもお邪魔して2泊させてもらっている。まあこれは仕事がらみだから「いい人たち」なのも当然だろう。


2010年はセドナで公園の景観や自然を守っている女性(白人)と、嵐が過ぎた後の超絶な景色を見ながら自然や宇宙の神秘を語り合い、2011年はラスベガスでタイヤがパンクした際は、見ず知らずの親切な青年(黒人)に直してもらいながら、彼のそれまでの人生や今後の夢などを聞き、励ましたりした。彼は前科を持っていて、自分の弱さでその罪を犯してしまったと後悔していた。そしてなけなしの金でLAからラスベガスに「未来を切り開きたい」とやってきた。

まあ「たまたま」いい人に出会って壮大な自然を見ながら話したりすることもあるだろうし、パンクしたりすれば「たまたま」前科のあるいい黒人がやってきて直してくれるなんてこともあるだろう。でも、ここまで「たまたま」がずっと続くんじゃ、それはもう「たまたま」とは呼べないと思う。なので、僕は「アメリカは根本において善良でフェアだ」といういう確固たる一般論的意見を持つことにした次第だ。

僕が最も差別を恐れた出会いのことも触れておこう。
2010年、砂漠地帯を流れるコロラド川のほとりで休憩のためたまたま車を止めたら、釣りをしている白人の親子(父と娘二人の3人連れ)がいた。僕らに気付くなりお父さんのDavidが話しかけてきたのだが、
僕が日本人であることを知るとまずは車のことを話したがった。

「私はトヨタのカムリに乗っているが、君は何に乗っているの?」僕が「いや、車は持っていないよ」というと、彼は「トヨタの国の男が車に乗ってないって・・・?」と驚きでのけぞっていた。また、僕が「会社では人事をしている」と言うと「自分は最近リストラされて、こんな真昼間にサンディエゴからやってきて釣りをしてるんだ」と事情を説明してくれた。そして、リストラ話はやがて彼の「人種観」へと発展した。


「私はメキシコ人とかフィリピン人が嫌いだ。英語も話せないのにアメリカにやってきて安い賃金でアメリカ人から仕事を奪っていく。外国に来て、しかも住むというのなら最低限の礼儀がある。それはその国の言葉を話す努力をすることだ。君は英語を話すが彼らの多くは違う」。彼は明らかに、真剣に怒っていた。

彼の言うことに全面的に賛同するわけではなかったが、彼の言わんとすることは理解できた。そして、彼がアジア人やヒスパニックなどに対してのレイシストだとは僕は思わなかった。何故ならば、彼は外見的にどうみてもアジア人の僕に、自ら話しかけてきたからだ。

彼の考えを聞いて、僕がそれまで嫌な目に遭わないで来たのは「完璧には程遠くとも英語を話すから」なのかと考えた。確かにそれは「出会ってからの好印象」を作り上げるという意味では大事だ。だが、自分が日本人で英語が一応話せると了解されるのはあくまで会話が始まってからなので、それ以前に僕が何者なのか相手は知るよしもない。だからこそ、一般的にアメリカ人は差別的ではないと僕は言えるのだ。

とにもかくにも、「英語を話さない無礼者」という理由でフィリピン人やメキシコ人一般に敵意を燃やすアメリカ人に僕は出会い、これが僕が「差別の匂い」を少しだけ感じた唯一の瞬間だった。

こうしてアメリカを何度か旅するうち、僕はアメリカのフェアネスを信じるようになったわけだが、今後裏切られることは必ずあると思っている。一方で、少々のことで今の意見が変わることもないと思っている。そして僕は、この幻想がこっぱみじんに打ち砕かれるまではアメリカにいたいものだと思いながら、2012年10月にアメリカに移住したのだった。そしてそこで、また凄い人々に出会った。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その五-データ集)

1.全行程

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2.航空会社、レンタカー、宿泊地

項目

内容

日時

2006年7月5日~16日

航空会社

Unitedエコノミー(シカゴ経由)

レンタカー

ダラー/Dudge Stratus4

走行距離

3720マイル(6000km

宿泊地

7/05 Best Western (La Place, LA)
       06 Best Value Inn (Texarkana, TX/AR)
       07 Days Inn (Snyder, TX)
       08 Best western (Alamogordo, NM)
       09 Best Western (Santa Fe, NM)
       10 Ramada Limited (Green River, UT)
       11 Candlewood Suites (Las Vegas, NV)
       12 Vagabond Inn (San Luis Obispo, CA)
 13-14 Ho氏の御宅 (Los Angeles, CA)
       15 LAXより東京へ 


3.全費用(1ドル=約118円)

航空券

\9,360 / 2人 (マイレージでカバー)

旅行保険

\12,990 / 2人

レンタカー

$1,155(保険フル装備、乗捨て代含む)

宿代

$694.3510泊。2泊は無料。一泊当たり$86.8

ガス代

$355.00(いきなりガロン3ドル時代に突入!)

食費等

\35,000

合計

\400,000

 

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その四)

この日は「グランドサークル」と呼ばれる「国立公園ばっかりの場所」を訪れた。

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Green River -- 800km+α --> Las Vegas (NV)

その前にMUST曲「Green River (by CCR)」を聴いたのは言うまでもない。そして公園に行くまでのUT-24、これが本当にいい道だった(道路と自然が互いに引き立てあい、いい味出している道のこと)。

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轢かれても自己責任ということでお願いします。よい子は真似しないでください。

キャピタルリーフNP、ブライスキャニオンNP、そしてザイオンNPの3つを見たのだが、個人的にはザイオンがよかった。「走って見る際に最適な風景」という意味で一番優れていた。

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ブライスキャニオン

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ザイオン。道路が楽しい。

夕方ラスベガスへ到着。3年ぶり3回目だ。ギャンブルしないのに何故か好きな町だ。シルクドソレイユの「Beatles Love」の看板を見て、いつか観たいなぁと心底思ったものだ(2011年にやっと観れた)。

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ホテルミラージュのLoveの看板

前夜ラスベガスのモーテルで初めてピザとサラダを注文してみたら、案外旨かったことに気を良くしてよく寝れたので、軽快に出発。

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Las Vegas -- 730km --> San Luis Obispo (CA)

まずはNewberry Springsへ向かった。映画バグダッドカフェのあのカフェがある町だ。

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実在するバグダッドカフェ

聴く曲は勿論、同映画の主題歌「Calling You」(by Jevetta Steele)」だ。

 ベガスからどこに行くともしれない砂漠の道
 これまでいた場所よりはマシなところにつくだろうか
 コーヒーマシンが壊れて修理が必要になってしまった
 あの曲がり角にあるコーヒーショップで
 嗚呼、私はあなたの名前を呼んでいる。聞こえる?呼んでいるのよ。

こういう曲をこの場所で聴いて感動しないわけにはいかなかった。

ベーカーズフィールド周辺は農業地域で、日本とは規模が違う畑が延々と広がっていた。行こうとしていたのはそこから少し西にある下の写真の場所だった。

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ジェイムスディーン・メモリアル・ジャンクション

ここは州道41号線と46号線が交差する場所で、ジェームスディーンが交通事故死した場所だった。ジェームスディーンは1955年に亡くなっており僕の世代でさえないけれど、アメリカのポップカルチャーになくてはならない人だと思い、敬意を表しに来たのだった。

そしてサンルイオビスポで一泊し、翌朝LAに行くと僕らはグラミー賞受賞のギタリスト、ダニエル・ホー氏夫妻にお会いし、厚かましくも2泊させてもらった。2006年の旅(その一)で書いたように、2005年12月に仕事で彼に楽曲制作を依頼したのが縁だった。彼は2006年2月にスラックキーギターを弾いて参加されたアルバムでグラミーを受賞しており、恐れ多い訪問となった。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その三)

サンタフェには15:00くらいについた。当時アメリカに住むなんてことは本気で考えることではなかったが、「どこなら住んでやってもいいか」みたいな高飛車な言い方で半ば冗談で考えることならもう何年もやっていた。そんな僕にとって、Santa Feは住んでみたいと思わせてくれる街だった。

空が美しかった。建物の色に気を配って統一感があった。ネイティブアメリカンの文化が残り、スパニッシュが残したキリスト教文化との融合が美しかった。それがサンタフェに抱いた印象だった。

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聖堂。背景の青とよくあう。

ターコイズのジュエリーを売る露天商がズラリ沿道に並んでいた。ここはこの種の装飾品のメッカだ。

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街並みの一こま

サンタフェという名前はあまりに有名で、観光地としては「下世話」になっているものと思っていたが、夕方までたった4時間ほど市内を見ただけの印象とはいえ、ここは再訪すべき町だと思えた。

翌日はユタ州のGreen Riverに行く。またロッキー越えだ。まあ東から西海岸に行くには基本避けて通れないし、砂漠の前に美しい山並みを走るのは楽しいのでいいのだが。

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Santa Fe -- 800km --> Green River (UT)

Taos(タオス)~Taos Pueblo(タオスプエブロ)は、世界遺産であるネイティブアメリカンの古代集落がある場所だ。この壁の土色がサンタフェの統一色になっていて、青空との相性が非常に良い。

Taosからしばらく行くとコロラド州だ。夏山の緑はやはり美しく、清涼な空気を楽しみながら走った。やがて2003年の旅行でも使ったUS-50に入り、実際そのときに宿泊もしたMontroseなどを経てI-70に出、17:00頃Green Riverに到達。

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ワイパー液がなくなって、ロッキー山中の公園でペットボトルで注ぎ足すなど工夫をした

グリーンリバーの町は閑散としていて、メインストリートにも人影がなかった。僕らはモーテルにチェックイン後、車をゆっくり進めてスーパーを探したのだがそれらしきものは何もないまま通りが終わりに近づいた。どこかで転回を切ろうかとした時、後ろからパトカーが。

「免許証見せて」
「はい。あのぉ、私何か悪いことしたんでしょうか?」
「うん?君は左側を走っていたんだよ」

僕も妻もスーパー探しに夢中になり、対向車がいないこともあって左車線を走っていた。二人とも走っている間は全然気付かなかった。彼はSUVに乗り、髭にグラサン、そしてデカかった。アメドラでおなじみの典型的な田舎の警官だった。

「あ、そうでしたか。すみません」
「何これ?日本から来たの?」
「はい」
「ふーん。なんか薬とかやってない?」
「めっそうもないです。日本は左側を走るので、ついつい気付かずに左を走ったようです」
「ふーん。おい、それは何だ?」

警官は、それまで見たことのない異様な黄色い物体がダッシュボード付近に置かれているのを発見した。さすがは警察官だ。見逃してはくれない。

「あ、こ、これは蜂蜜キンカンのど飴です。えっとキャンディーです」
「ああん、キャンディー…?」
「おい、その袋は何だ!?」

有能な警官の彼は、妻の足元に隠すように置かれた白いビニール袋が、モノが入っていて異様に膨らみ、くちが無造作に縛って閉じてあるのを見逃すことはなかった。 

「こ、これは、ご、ごみです」
「ごみ…だと?ちょっと見せてみろ!」

彼がくちを開けて中を覗き込む。

「クンクン。ウープス!本当にゴミじゃないか!」 

というわけでDUI(「ドライブ・アンダー・インフルエンス」の略で、麻薬やアルコールの影響下で運転することをいう)の嫌疑は晴れ、警告書にサインするだけで解放された。やれやれ。

ところであの警官は、この車の仮ナンバーがとっくに期限が切れていたのをどう思ったのだろうか。見逃したのか、気付かなかったのか。もしその件で今後警官に止められたら…と考えて少しブルった。なんでそんなナンバーの車に乗っているのか、日本語で説明することさえ出来ないのだから。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その二)

翌朝の道程は、スナイダーからニューメキシコ州のAlamogordo(アラモゴード)まで。この日は珍しく見たい場所が2か所もあった。

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Snyder -- 650km --> Alamogordo (NM)

 Carlsbadには世界遺産の「カールズバッド洞窟群国立公園」がある。そう、洞窟だ。何故写真がないかというと、暗い洞窟でフラッシュは憚られたからだ。

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「自然の不思議」に事欠かないアメリカを再認識し、Roswell(ロズウェル)へ。

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ここは1947年にUFOが墜落した(ことになっている)町で、上の写真のようにそれが観光の目玉になっているし、NHKでも放送された宇宙人モノ「Roswell」はまさにここが舞台だ。我々はこのドラマとその主題歌「Here with Me(Dido)」が大好きだったので是非来たいと思っていた。UFO関係の演出は結構チープだったが、住宅地としての小奇麗さが意外だった。

ロズウェルを出てUS-70を西に向かうと前方に山が見えてきた。大平原もとうとう終わりを告げるのだろう。夕方アラモゴードに到着。

翌朝アラモゴードの宿から向かったのはホワイトサンズ国立公園だった。ここも旅前から楽しみにしていたところだ。

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Alamogordo -- 580km --> Santa Fe (NM)

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ホワイトサンズ
 
石膏できた雪のような砂は幻想的で、耳の血管を流れる血の音以外聞こえるものがない静寂は驚異的だった。他の砂漠とは一線を画した美しさは正に圧倒的だった。一方、原子爆弾は1945年7月16日に初めて起爆されたが、その実験場がアラモゴードにあった。その後一カ月もせず、その成果は広島と長崎で試された。どんな国家にも汚点はあるだろうが、この原爆による民間人虐殺はその中でも最も醜いもののひとつかもしれない。

一旦Las Cruces(ラスクルーセス)という町に出てからひたすらI-25を北上。悪い意味での同じような景色がずっと続く道だが興味深いことが二つあった。一つは「Truth Or Consequences」という町。「真実、または帰結」とでも訳すべき名前だ。標識で町名を発見したとき宗教がらみではないかと思い、少し怖くて立ち寄らなかった。後に調べたらこういう由来だった。

― もとの市名はホットスプリングス(Hot Springs)といった。1950年、ラジオの人気番組であった「トゥルース・オア・コンシクエンシーズ」の司会者、ラルフ・エドワーズ(Ralph Edwards)が「この放送のあとに地名を『トゥルース・オア・コンシクエンシーズ』に改名した町で番組の放送を行なう」と公言した。全米から立候補が集まり、その中からホットスプリングスが選ばれ、市名をトゥルース・オア・コンシクエンシーズと改めた ― (ウィキペディア日本語より)

そして、僕がドライブ中に聞いていた全国ネットAM局の政治トークショー。この時は金正日が核実験をやったばかり。この司会者は激烈なトーンで彼をこき下ろしていた。Kim Jong Ilの綴りと発音をもじって「Kim Jong Mentally Ill(キムジョン精神病)」と何回も繰り返していた。こんな司会が全国放送であっていいのか、と軽いカルチャーショックを受けた。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その一)

前年6月上旬に行ったアメリカ旅行はトルネードシーズンだったことで雨にやられる日が多かった。この年はそれを反省材料にしながら「より遠く、より長く」をテーマに旅程を組んだ。

ところで、僕は相変わらずFM放送局にいたが、前年から系列の音楽出版社に出向していた。昔作詞作曲家として音楽作品を生み出す現場にいた僕は、同時に著作権を独学で学んでいたし、その後人事・法務の仕事や法律の国家資格試験などでその知識が肉付けされていたので、新しい著作権ビジネスの立ち上げや著作物の新規開拓をやりたいと上層部に申し出たら、人事法務系の管理部門との兼任を条件に認めてもらえたのだった。

この業務を通じ、前年12月に面白い仕事をした。LA在住のスラックキー・ギターの名手にしてボーカリストのDaniel Ho氏を起用して、局の大スポンサーC社のためにカバー曲集を作ることになったのだ。僕はプロデューサーとしてLAに出張し、その時Ho氏にお会いした。それが縁で、僕らの今回の旅の最終地LAで、Ho氏の御宅に泊めて頂けることになった。

****

7月5日、旅はルイジアナ州ニューオーリンズから始まった。

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さすがデキシーランドジャズの発祥地。空港でミュージシャンたちがお出迎えしてくれる。

シカゴ経由で16:00に到着後ダラーで車をチェックアウトし、予約済みのモーテルへは18:00過ぎに着いた。ここで"Sold in a market down in New Orleans"という歌詞を含むローリングストーンズの「Brown Suger」をカーステでかけたかというと、かけた。あまりにベタだけど、しないと後悔すると思ったから。

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New Orleans (LA) -- 800km --> Texarkana (TX/AR)

レンタカー屋では、仮ナンバーでしかもその有効期間が切れている車をあてがってくるというアメリカンないい加減さがいきなり炸裂。でも大丈夫だと言うのでそのまま乗ったこっちも結構いい加減か。


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有効期限6月25日と書かれた仮ナンバー。この日は7月5日であった。

翌日まずはニューオーリンズ市街を車で見学した。前年のハリケーンカトリーナが残した爪痕は一部にまだ生々しく残っていたが、写真を撮ったりすることがなんだか不謹慎なような気がして自重してしまった。

ニューオーリンズを出ると、僕らはNachez Trail Parkway(ナッチェス・トレイル・パークウェイ)という道路 を走ってみた。ミシシッピ州ナッチェスからテネシー州ナッシュビルまで続く全長715kmの道路で、1700年代から使われている古いものだ。整備と保全は道路局ではなく公園管理局がやっているそうだ。僕らはそのうちのナッチェス・フォートギブソン間を走っただけだったが、確かに趣があった。そもそも乗用車しか乗り入れられないという道路だから、よほど保全に力を入れているのだろう。この日の宿はTexarkana(テキサカーナ)。テキサスとアーカンソーの州境の町だ。名前が面白いということだけで選んだ。

*****

翌日はオクラホマに立ち寄り、ダラスを見て、Snyder(スナイダー)という恐らく誰しもがノーマークの田舎町に泊った。

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Texarkana-- 850km -->Snyder (TX)

まずここで言わなければならないのは、オクラホマから南下してテキサスに入った最初の町、Denison(デニスン)で食べた「テキサスダブルワッパ―」が史上最高のハンバーガーだったことだ。

06-04

ダラスではケネディー大統領暗殺関係の資料館に寄った(なかなか興味深かったが写真がないのでお見せできない)。また、この一帯を走っていてやたらに聞いた曲が「Jesus, Take the wheel(Carrie Underwood)」だった。アメリカンアイドル優勝者、キャリーアンダーウッドの曲で、前年秋にリリースされたのだという。プレーリーの田舎道は、遮る物のない開けた視界の中、緑の農耕地をのんびり走る感じになるが、そこでもカントリーはあう(というかこの辺がメッカだ)。そこにこの曲が何度も流れれば、忘れようにも忘れられなくなろうというものだ。

その後I-20をひたすら西に進み、US-84でSnyderに到着。なんだ、走ってばかりではないか、とお嘆きの諸兄。その通り、走ってばかりです。一都市に何日かステイしてじっくり楽しむ旅も勿論いいと思うものの、この当時は「どうせ10日前後の有休でじっくりもくそもあるか」と思っていたので。広大なアメリカの未踏破地帯を少しずつぬり絵を塗るように染めていく「我々流」もこれはこれで非常に楽しいのです。

2005年、ナッシュビルからシアトルへ(その四-データ集)

1. 全行程
05-13

2.航空会社、レンタカー、宿泊地

項目

内容

日時

2005年6月1日~11日

航空会社

Unitedエコノミー(シアトル経由)

レンタカー

アラモ/Pontiac G6

走行距離

3200マイル(5150km

宿泊地

6/01 Sleep Inn (Nashville, TN)

02 La Quinta (Columbia, MO)

     03 MicroTel Inn & Siutes (Sioux Falls, SD)

       04 Motel 6 (Rapid City, SD)

       05 Days Inn (Butte, MT)

       06 Hampton Inn (Portland, OR)

  07-09 Best Western (Tukwikla, WA)

     10 SEATACを発ち11日日本へ帰国


3.全費用(1ドル=約110円)

航空券

\218,140 / 2

旅行保険

\7,450 / 2人

レンタカー

$1,036.91(保険フル装備、乗捨て代含む)

宿代

$717.699泊。一泊当たり$79.70

ガス代

$240.84(ガロン2ドル前後の時代!)

食費等

\50,000

合計

\500,000


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