バプティズムのメッカとしてのアメリカ東南部


これからキリスト教の話をする。アメリカを知るうえで絶対欠かせない知識だとは思うが、はっきり言って関心のない人には苦痛でしかないと思う。そのつもりで。

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アメリカ東南部については、フロリダ以外行ったことはなかったとはいえ少しは知っていたつもりだった。東部
13州とはかつてのイギリスの植民地であり(下表参照、太字は今回訪問)、1776年に独立が宣言され、1860年に南北戦争が起きた、といった中学高校で習うようなこともある程度は覚えていたし、アメリカに住んでいれば東南部一帯は政治的にかなり保守的であることも普通に知ることにはなる。


ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア、メリーランド、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア


しかし、アトランタに降り立ち、レンタカーを駆って大西洋に向け出発して間もなく、緑深い森の中を続く道路沿いに小さく質素な佇まいの教会 - その9割はBaptist Church(バプティストチャーチ)と書かれていた - 5分ごとに現れる様は異様だった(そしてこの光景は旅が終わるまで、基本変わらなかった)。


Church_in_SC

典型的バプテスト教会。画像検索でみつけたもの。車を降りて撮影することは躊躇われた。


「自分が米南部や東部に関して持っている知識、例えばディープサウス地域の黒人差別や保守性、1620年にメイフラワー号が到着した史実、そして1649年にイギリスで清教徒革命が起きた史実などとこの光景には何か関係があるのだろうか」


旅を始めて早々に、僕はそんなことを考えた。教会の多さに驚いてしまい、しかも関心を一旦根こそぎ持っていかれるなんて、旅を始める前までには予想もしていなかったことだった。

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ここで中学だったか高校だったかに習った「メイフラワー号アメリカ到着」やイギリスでの「ピューリタン(清教徒)革命」を簡単におさらいしたい。


ピューリタンとは、16世紀後半以後イギリス国教会と対立し、徹底した宗教改革を主張したプロテスタントの一派、正確にはカルバン派の人々だ。名前の通り聖書内容に対して「ピュア(原理主義的)」だから「ピューリタン」と呼ぶようだ。


清教徒革命はイギリスに留まったピューリタンがイギリスで起こした革命であるが、宗教の自由を求めて海外に新天地を求めた人もおり、その関連で最も有名な史実こそが1620年のメイフラワー号のアメリカ(マサチューセッツ)への到着というわけだ。

しかし、その史実だけではアメリカ南東部に多数の(バプテスト)教会があることの説明にはならない。そもそもイギリス人(ピューリタン)たちは、何故アメリカに信仰の自由を求めてやってこなければならなかったのか。その背景は何なのか、そこからして僕は詳しいことを知らなかった。かつて学生であり、受験生であり、20代の僕は塾で中学生に社会科も教えていたのになんと浅い知識だろうか。

旅の途中も旅から戻ってからも、僕はこの疑問を晴らすために色々調べた。それを以下に、なるべく端折って書くこととしたい(それでもかなり長いよ)。


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1500年代前半、ドイツのマルティン・ルターらによってカトリック教会の改革を求める宗教改革運動が起きた(ルター、懐かしい。カトリック教会が行った「あなたの罪を金でなかったことにしましょう」っていうあの「免罪符」とセットで覚えたのだが、諸兄は覚えておいでだろうか)。


この時、ルター派に加え、ルターの言い分にさえ不満な急進派も加わって激烈にカトリックに対して抗議(英語でプロテスト)が行われたのだが、この抗議者たちのキリスト教に対する解釈や態度ないし思想並びにその派閥を「プロテスタント」と呼ぶようになったのだそうだ。


ザビエル

こちらはザビエル(スペイン人)。同じ1500年代のキリスト者だが、こちらはカトリック


ルターたちはこの抗議を契機に聖書に立ち返る福音主義を唱え始め(よってプロテスタントはイコール福音主義的という図式が成り立つ)、北方に広まり、1500年代中期にはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーで国教となっていった。

また、ドイツの動きとほぼ同時期にスイスでも宗教改革運動が起こり、ジャン・カルバン(これも教科書に出てきたはず)が「自分の(鍛冶屋とかパン屋とかの)仕事を全うしろ。それでも神やイエス様に身を捧げたことにはなる。ただし生活は質素で禁欲的にな」という教えを説き、これがフランス・オランダ・イギリスへ広がった。


このカルバン派こそが今のアメリカのバプテスト派閥の最大勢力となった。以下は、ここまでの話に基づく系統図である。

 プロテスタント(福音主義=ルター)
  
バプテスト(強い聖書原理主義的な思想)
   
ジェネラル・バプテスト(アルミニウス)
   
パティキュラー・バプテスト(ジャン・カルバン)


上のアルミニウスという人は、「この世に生を受けた人ならば、キリストの恵みによって、少なくとも神からの呼び掛けや救いへの招きに対して応答する能力を持つ」と考えた人だという。要は信じれば誰にでも神の救いはある、ということだ。

 

一方カルバンは、「神は救済する人を予め決めている。よって教会にいくら寄付とかをしても救済されるかどうかはわからない。神はの人間の意思や行動で左右されない」と考えた人(予定説というらしい)なのだそうだ。

 

John Calvin

ジャンカルバン(Wikipediaより)


なんだこれは。厳しすぎるぞ。なんでこれが大衆に支持されるんだ?といぶかしく思った諸兄。僕もそう思った。実際、予定説では何をしても運命が変わらないことになるので、当時それを真に受けた人々は自分が救われるのかどうかを確かめたがったのだそうだ。そこにカルバンがぶつけてきた理屈が「職業召命説」だった。


「仕事は神から与えられたものであり、仕事に励み成功する人を神が救済リストから外しているはずはない」という考えだ。当時の宗教観では労働や蓄財は卑しいものとされていたのでこの考えは斬新であり、しかも一般の人々にモチベーションを与えた。そしてこれは資本主義には大変都合のいい解釈でもあった。


こうしてカルバンの思想は1500年代後半にイギリスにも波及し、腐敗・堕落(?)している英国国教会の内部でピューリタンと呼ばれる改革派が出現。イギリス国教会から分離することを主張する者と分離しないで内部教会改革を志す者とに分かれた。後者こそがアメリカにメイフラワー号で移民してきたピューリタンたちだった。


mayflower

Mayflower号とピューリタン(History.comより)


1600年代に入り大西洋を横断することが当たり前になった時代。カルバンに影響されたフランス人やオランダ人もアメリカに来たし、ルターに影響されたドイツ人たちも来た。こうして様々な国からプロテスタントの人々がアメリカにやってき、13のイギリス植民地が形成されていった。


驚いたことにイギリスは、各植民地に対しアパラチア山脈の西側を勝手に開拓してはならないと命じていたという(僕はこの史実を全く知らなかった)。このため、ピューリタンの入植からアメリカの独立までの長い間、彼らはアパラチア以東に居所が固定されていた。

そんな中で、故郷を捨てアメリカで人生を築いていくことになった各国出身の人たちの心のよりどころとなったのは、言うまでもなくキリスト教、正確にはプロテスタント、中でもカルバン主義であるパティキュラー・バプテストだった。


「額に汗して働くことは美徳であり、そういう人こそ神が救済してくれる」。そんな教えはこのアパラチア以東の地に住む彼らにとって辛い生活を頑張りぬける源泉になったのだろう。だからこそ、僕がドライブ中に見た協会は、10のうち9つがバプテスト教会だったのだ。「やけにバプテストが多いな」と思っていたら、そういうことだったのだ。

 

最後に、アメリカのバプテストのうちパティキュラー・バプテストの方は、さらに南部北部の二派に分かれていることを説明せねばなるまい。別れたのは1800年代半ば。そう。南北戦争の前だ。奴隷制を巡って対立し、分派したのだ。こんなに信心深い人たちが「奴隷は存在してもいい(とか悪い)」とかやってるわけで、人間は非常に訳が分からない存在だと思わざるを得ない。


はー、やっと説明が終わった。。端折ったわりに長すぎるだろう、我ながら。。。

 

ちなみに、プロテスタントであるバプテストの教会は非常に質素である。流麗な装飾が施された豪華な教会というのは基本的にその原理原則上ありえない。なぜならそういうのはカトリックの領分だからだ。欧州の教会が観光地化するほど美しいのは、欧州だからではない。カトリックだからだ。

バチカン、サンピエトロ寺院
(Wikiより)バチカンのサンピエトロ大聖堂。カトリックの総本山。絢爛豪華。