アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2011年にグリーンカードが当たり、アメリカへの憧れに抗しきれずに2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員(人事、法務など)に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。。。面目ない。

アメリカでの仕事

アメリカでサラリーマンになるには

個人輸入代行屋がダメだった場合はどこかしらで雇われないとならないので、渡米前に様々な情報を集めた。アメリカ帰りの情報通からの話では、僕のキャリアなら仕事は必ずあると言われたので結構高をくくっていたが、実際にはそんなに甘いものではなかった。

昨年の夏ごろだったか、僕はアメリカで人材紹介会社に勤める知人に、今の輸入代行屋がダメだった場合のことを想定して色々相談してみたことがある。元々人事・総務・法務系をメインにやってきた僕の日本でのキャリアはそれなりに面白いと思うし、法人営業的な面でも実績を出したことがあって、日系企業ならどこかしら働き口はあるかと思ったが、その考えは甘かった。いかにキャリアがあろうとも、48歳という年齢はアメリカでもネックになったのだ。

年齢が高い上にアメリカでのサラリーマン経験がないことは基本マイナス要素しかない。だから、日本でいかにキャリアを積んでも、あなたが既に4,50代でアメリカでの職務経験がないなら、よほどの人脈か専門能力ですぐにその会社に多大な貢献が出来ることが明らかだというようなケースを除き、アメリカでは日系企業でも米系企業でもほとんどニーズはないと思った方がいい。

一方、日本からアメリカに渡った時あなたが20代なら、キャリアがあろうがなかろうが働き口はまず間違いなくあるだろうし、あなたが30代なら、アメリカで合法的に働くビザを持っているなら働き口はやはりかなりあるだろう。

しかし例外はある。たとえば、僕とてある企業から熱心に誘われたことがある。アメリカにいる日本人を対象にした営業の仕事で、日本における営業と同じようなレベルで対人関係を構築でき、信用・信頼を築いていく能力が必要な仕事だったので、僕の年齢は全くマイナスにならず(というかプラスになり)、僕の過去の職歴は信用を醸成できる貴重なものだと評価されたからだ。

つまり、年齢がいっていても、年齢相応の職歴がある人はその「安定感や信頼感」を買われることはあるのだ。それは裏返して言うと、日本からアメリカに来ている若者は、がむしゃらで物怖じしないが一定の常識や知識に欠けているという一般的な評価が存在するということだ。

ということで、アメリカで働きたい場合も日本同様年齢は大きなファクターになる。アメリカでは法律上履歴書に年齢を書かなくてもいいが、いつ学校を卒業し、いつから働き出しているかを書く以上、応募者が何歳くらいかは見当がつくのだ。

おっと。「英語力」のことを言っていなかった。わざわざ日本からアメリカに来て「英語はしゃべれないが働きたい」というのなら、それは端から間違っていると思う。それって前提からおかしいでしょう。間違っているし、おかしい。けど、働き口がないかといったら、実はある。日本人だけを相手にする仕事で、コミュニケーションも日本語だけで済む職場がないわけではないからだ。ただその条件では高い給与をもらえる仕事は存在しないのでそのつもりで。

個人輸入代行屋:この2年間の概要

アメリカに行ったら個人輸入代行をしようと思ったのは、グリーンカードが当たる2011年夏のことではない。その2年前に転職した東証一部の「立派な会社」でやっていくことに疑問を感じ、病み、退職を決意すると同時に頭に浮かんだことだった。

2009年6月にその会社を辞したのだが、このとき英語を使う行政書士か、自分が大好きなアメリカ商品を扱う個人輸入代行か、そのいずれかを生業にする決意を固めた。

経済的な理由で大学を3年で中退し、塾の講師から作詞作曲家となり、食えなくなって廃業したのが35歳という僕は、そこから英語をもう一回学び直して通訳になり、法律を学んで資格を取り、派遣社員などを経てFM局の正社員になり、管理職になり…という七転び八起きの人生を歩んできた。同居する妻の母親は、その苦労を知っているのでまた根なし草になることに反対し(まあ当然だが)、結局同年12月にまた再就職したのだけれど、実は密かに独立準備はしていた。

そして2011年3月、あの大震災で残りの人生をどう生きるかについて本当に真剣に考える機会を得た僕は、トライさえしなかったなら今後ずっと後悔すると思い、その一点でサラリーマンを辞めたのだが、同年7月にグリーンカードが当たり、タイミング的に背中を押された感は強く、行政書士ではなくアメリカを本拠地にしての個人輸入代行を行うことで方針は固まった。

2011年の後半は何を商材に扱うと支持を受けられるか様々考えていたが、知人が「自分はdocomoユーザーなのでアイフォンが使えず、アメリカのSIMフリー版を買いたいのだが」、と相談してくれたことがきっかけで、僕は日本のiPhone事情を調べまくった。すると、SIMフリーの需要はかなりあるし、日本での販売価格も非常に高いことがわかった。

2012年9月上旬、10月上旬にアメリカに渡って営業を開始する前提でiPhoneの代行受付を開始すると、僕がつけた代行価格はライバルを圧倒的に凌駕し、すさまじい数のお申込みを頂いた。が、10月2日に実際にアメリカに来てみるとiPhone5は猛烈な品薄で、どのAppleストアにいっても1台たりとも売ってなかった。これが1週間続いた時点でお客様に代金全額をご返金をしたのだが、この措置がかえって信用を頂ける機会となり、iPhone5が11月中旬に店頭にようやく入りだすと、80%を越えるお客様に再度お申込みいただけたうえ、新規のお客様も12月下旬までに数百名を越えた。

こうして2013年を迎えると、当然だがiPhone5の需要はほぼなくなり、こちらもそれに代わる様々な商品の提案や代行方法の工夫などをしてみたのだが、iPhone5を越えるような存在はどうしても見つからなかった。アメリカのサプリや薬は人気なことは知っていたが、この分野は既に大手ががっちり押さえていて、何しろ大量に発送するアドバンテージを活かしてむちゃくちゃな安さで配送会社を使える。ある重さについてウチが3000円払う時、大手は400円なのだからどう転んでも太刀打ちできなかった。

結局2013年も9月になってiPhone5Sが出、お陰様でウチは新規のお客様と多くのリピーターから支持されたのだが、11月下旬に日本でもSIMフリーが販売されることになった。それでも需要は年内はもったが、いよいよ2014年はiPhoneに頼らない商材の開発か、または業態の転換が必要になるのは必至の情勢となった。

年が明け、色々試行錯誤する中で福島の実母が逝去し、2週間ほど日本にいてアメリカに戻るとその1か月後には東京にいる義父母が病気になり、ついでに義父母と一緒にいる飼い猫が癌になった。再度、3月から6月まで東京に戻り、二人と一匹の面倒を見、7月にようやくアメリカに戻ってからしばらくは東京から連れてきた猫の看護と通院で時間は過ぎ(なお、今も猫は存命で、しかもむしろ元気である)、すぐにiPhone6/6Plusの季節が来てしまい、新しいことには着手できないままもう11月下旬を迎えてしまった。

2012年10月にアメリカに来た時、1ドルは80円だった。しかし今や118円。余りに急激な円安で、日本のお客様が海外のものを気軽に買う気持ちを失いつつある今、僕という個人輸入代行屋は明らかに岐路に立っている。日本のものをアメリカで売るといった転換をするか、はたまた全く輸出入と関係ないビジネスを行うか。アイディアはあるのであとは踏み切る勇気と決意次第だ。
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