アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

旅行で見たアメリカ

南カリフォルニアの新型肺炎の状況(2)

忙しく、かつ終わりの見えない仕事を抱えている今の僕には、砂漠に行くことは本当に心の安定にとって重要だ。なので今日は、自宅から2時間ほどのところにあるCoachella Valley(コーチェラバレー)という避寒地で有名なPalm Springs(パームスプリングス)の近くの砂漠を目指して妻とドライブしてきた。

ところで、今週1週間でアメリカの様相は変わってきたことがわかってきた。同僚が「コスコ(コストコ)に行ったんですけどトイレットペーパー売ってなかったです。ハンドサニタイザーも売ってないです。ほかの人が言ってましたが米もないそうですよ」などと言うのだが、僕は全然実感してなかったので、今日ドライブに出たついでに、自宅から200㎞以上離れたPalm Springsのコスコを訪問してみた。

驚いたことにトイレットペーパーは見事に売り切れていた。そんなことあるのかと思って近くの量販店、ターゲットに行ってみたら、トイレットペーパーは存在していた。けど、いつもより少ないことは棚の具合でよくわかった。

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Palm Springs近くのターゲット。トイペ棚がここまで閑散とすることってないです。

寄ったついでにいつも使っているトイレットペーパーを2パック(合計48ロール)買ったのだが、まさか自宅から200㎞離れたターゲットでトイレットペーパーを買うことになるとは思わなかった。

僕が住んでいる南カリフォルニアの海沿いにはアジア人が多く住んでいる。中国人、韓国人が特に多い気がする。僕は、コスコでのトイレットペーパーの品薄は、日本人も含めた東アジア人の買いだめではないかと睨んでいたので、東アジア人が少ない内陸のPalm Springsにはトイレットペーパーは存在すると思っていた。が、ここまで品薄とは。

トイペがコスコにはなくてターゲットにあった理由は基本的には「価格差」ではなかろうか。同じメーカーのワンパック(24ロール)をターゲットが23.99ドルで売っているのに対し、コスコは5ドル引きで売ることがあるからだ。でも、わからん。

さて、アメリカでの新型肺炎の流行はどうなるのか。そんなことは素人の僕にわかるはずはないが、普段から絶対マスクをしないアメリカ人は単純にやばい。ニュースによれば、東アジア人が差別的な仕打ちを受けているケースがままあったらしいが、ここ一週間のアメリカでの感染の拡大具合は日本よりひどい感じであり、特にサンフランシスコに停泊中の「なんとかダイアモンド号」の件があった(今も継続中)ので、もうそんなデマや先入観は通用しないだろうと思う。

そう、「日本のなんとかダイアモンド号」の件はイメージがものすごく悪かったわけだが、アメリカで同じ事が起きてしまい、日本政府の対応を批判していたアメリカのマスコミや政府も、今や完全に自分事としてこの事案に対処しなければならなくなっているのだ。

ちなみに、ターゲットにもコスコにもハンドサニタイザー(手の除菌剤)はなかった。アメリカ人もその辺は気にしていると思われる。でも、人ごみには普通に行くし、マスクは絶対にしないし、本当の国民皆保険が実現している日本のように誰でも気軽に医療機関に行けるわけでもないから、まだ感染は広がると思う。形勢逆転。日本よりやばい。そんな気がする。

僕はといえば、そもそも冬場になれば職場に着いたとたんにマスクをし、こまめな手洗いだけは励行していたので同じ行動を貫いている。なお、職場に行くまではマスクはしない。もしマスクを公の場でしたら、高い確率で「保菌者」と思われ、差別を受ける可能性さえあるからだ。アメリカ人にとってマスクは、感染した人が迷惑をかけないためのものだからだ。

つまり、あなたがマスクをしていれば、あなたは保菌者であることを意味する。今のご時世であれば、あなたは新型コロナウイルスの感染者ということになる。まったくもってマスクへの偏見は無茶苦茶だが、アメリカ人も、なんでも正しく合理的に考え行動できるわけではないのだから仕方がない。

ではまた。

米東南部を巡る理解の更新(3-最終)

トランプ支持の源泉

前回からやたら時間がかかってしまい申し訳ない。忙しいのはいつものことだが、今回はパソコンの不調などもあって遅れてしまった。

トランプ大統領が、主としてアメリカの中流またはそれ以下に属する「白人保守層」から支持されて勝ったことは誰でも知っていると思う。しかし、その真の理由/原因についてはなかなか知ることはできないと思う。実際、父と兄が大統領だったジェブ・ブッシュやマルコ・ルビオなどを抑え込み、保守党内のレースで下馬評を覆せたのは何故か。これは僕にも疑問だった。

でも、前回述べたように、アパラチア以東の人々の一般的な特性、すなわちキリスト教原理主義的な考え方とその影響力を知って、その理由が見えた。すなわち、中流以下の白人保守層の一般的な思想、理想、希望、欠乏感、不満を最もくみ取れたのがトランプだった、ということだ。

この白人保守層の人々の多くがプロテスタントであり、大なり小なり大きな政府反対、銃器規制反対、中絶反対、同性結婚反対といった考え方に立つ。最右派になると進化論もビッグバンも認めないほどなだ。だから、昨今のアメリカは彼らには総体としてその反対に進んでいて「リベラルすぎる」ように見えており、大いに苛立っていた。

「自分たちの経済的苦境は我々の仕事を奪う移民のせいではないか?このような状況で何故オバマは健康保険の加入義務化などをするのだ?我々の税金を何故自分たちの意向に反して使われなければならない?誰に使っている?外国人?不法移民?異教徒?ふざけるな!」

こうした不満が募る中で、今までの保守政治家にさえ飽き足りなくなった中流以下の白人たち(多くの場合プロテスタントたち)とって、トランプは最も「良い候補者」だった。

当選して以降の言動からも、トランプが白人保守層の受けを意識していることは確かだと思う。たとえば中東から移民に関する無神経な、というかかなり野蛮と言っていい彼の政策を皆さんは覚えているだろう。テロ支援国の人間はグリーンカードの保有者お含めて一切アメリカに入国させないという、あれだ(後から撤回してはいるが)。

アメリカ(の白人たち)の利益を守る政治家であると思ってもらうには、仕事を奪う外国人の入国を規制する政策は当然打ち出したいところだ。しかもその外国人がイスラムならば、これ以上の大義名分はない。何故って、異教の外国人の入国を阻止しようとするトランプをプロテスタントが支持しないはずがないのだから。この際、政策が失敗または未遂に終わったかどうかは重要ではない。トライしないで信用を失う方がトランプには怖いのだから。

トランプは、その意味でしたたかだった。そもそも支持基盤はプロテスタントなんだから、そこにターゲティングした姿勢を見せるのはまあ当然のことだった。

僕が今「馬鹿だなぁ」と思うのはマスコミ、特にリベラルマスコミだ。多くのTVや新聞社は基本民主党寄りなので、トランプ出現以前から共和党側を叩いていたが、トランプが出てきて大慌てしダブスタ報道に拍車がかかった。

たとえば「不法滞在の移民を国外追放する」のは合法である。当然の措置とさえいえる。これを人道的観点から阻止したいなら正攻法でそう言えばいいのに、リベラルは対象者が「不法移民」であることを糊塗し「移民全体」に印象操作するのだ。公平に見て、トランプはそんなことは一切言っていない。

このSNSの時代、このような言論の矛盾や不公正はすぐにほじくり出される。結果、保守派の心に火をつけ、大統領選でのトランプの勝利や現在までの地位の安泰へと導いてしまった。

保守でもリベラルでもいいけど、ダブスタはもうやめないと。もう情報はマスコミだけのものじゃない。僕らは情報を与えられるだけの立場ではなく、情報を見抜き、自ら生み出すこともできる。近親相姦で妊娠しても中絶を許さない保守派や、北朝鮮を含む共産主義国家に手を貸すような左翼まで、アメリカには本当に多くの人たちがいる。僕はどちらに加担するのもいやだから正確で公正な情報が必要だ。「真実」や「公正さ」は「主義」の上にあるべきものだと僕は信じる。

ああ、最後はマスコミ批判というかダブスタ批判で終わっちゃった。以上、アメリカ東南部を巡る僕の理解内容の更新にかかるレポートでした。

米東南部を巡る理解の更新(2)

「アパラチアの山」に住む人々の政治的な力

東海岸に流れ着いたピューリタン(聖書原理主義者)。その後も人々は故郷を捨て、ドイツから、フランスから、オランダから、スイスから、そして他の欧州諸国から、新天地のアメリカに来て人生を築いていった。

こうした人たちの心のよりどころとなったのは、言うまでもなくキリスト教だったわけだが、多くの人が支持したのはカトリックではなく、プロテスタント、特にバブテスト派だったことは前回のエントリーで書いたとおりだ。故にアメリカ南東部は現在でもバプテストを中心としたプロテスタントが多数いるというのが歴史的な流れである。

このようにバプテストを中心とした極めて原理主義的なクリスチャンがここまで多く存在しているのはアメリカのみであり、世界的に見ても極めて珍しい傾向であるらしい。言語的にもこの地域は独特と言わざるを得ない。

西海岸も含め主要な大都市ならどこも大体そうであるが、アメリカ人の英語のアクセントは基本的に我々がテレビや映画などで聞く「アメリカン・アクセント」である。しかし最南部やアパラチアで聞いた英語はかなり違う。まるでブリティッシュ・イングリッシュのような発音なのだ。例えばwayやplayなどは「エイ」と言わず「アイ」と発音するのだ。


上の動画のようなものは「Appalachian English」と入れればいくつも検索に引っかかるが、とにかく凄い「訛り」だ。そしてやはりこれは、17世紀以降の入植者がもたらしたイギリス英語がここで純粋性を保てたためなのだという。色々なものが純粋性を保って保存されている地域、そこがアパラチアだ。

 ***

ところで「Feel like going home」という曲があるのだが、これは20年前くらいに旅チャンネルがやっていた「栄光のマザーロード、ルート66」という番組のエンディングテーマになっていて、それを聞いて以来ドライブ旅行には欠かせない存在になっている。この曲の演奏者がThe Knotting Hillbillies(ザ・ノッティング・ヒルビリーズ)といい、あのダイアストレイツのマーク・ノップラーがこのバンドでギターを弾いている。

そう、バンド名に「ヒルビリーズ」とある。だが、その意味に着目したことはこれまで一回もなかった。ロカビリーの親戚くらいにしか思っていなかった。しかし、真の意味は全く違った。これは「山あいに住む無教養な田舎者」を侮蔑する言葉だった。この山あいとは基本アパラチア山脈を指す。これはどういうことなのか。

先日初めて出会った「レッドネック」という言葉も、同じく侮蔑語として今も存在している。これは、日中太陽に焼かれて首の部分が赤くなってしまう単純労働者のことを揶揄したものだ。これもどういうことなのか。何故山あいに住むという地理的特性や、外で働けば必ずそうなってしまう皮膚の反応を教養のなさに結び付けて侮蔑するのか。

侮蔑する側の評価はこうである。すなわち、アパラチアの人々は非論理的である。いかなる堕胎も同性婚も反対であるし、宗教原理主義が高じてビッグバンも進化論も否定する。また、アパラチアの人々は容姿、身だしなみに気を使わなさすぎる。常につなぎのジーンズにもじゃもじゃのひげ。そして歯がない。さらに、アパラチアの人々は野蛮である。銃を携行して町を歩き、人種差別的であり、いまだに南北戦争時代の南軍の旗を掲揚している。

典型的イメージ

誇張が激しいと言いたいところだが、調べた限りではある程度事実に基づいているようである。勿論見た目に関しては大きなお世話だが、レイプをされた場合でも堕胎してはならないという考えが本当ならば、僕にもちょっとついていけない。

で、本当にそんな考え方をするのか、といえば、するのである。そして現に、この考えを具体的に法制化するという動きがあって、今現在全米16州で中絶を制限する州法案が出され、複数の州で可決されているという。しかもアラバマでは、つい先日レイプや近親相姦でも中絶出来ないという州法が本当に通った。これ、本当なのだ。。。いくら何でも行き過ぎだ。そんな思いを禁じ得ない。


ちなみに、アラバマはアパラチア諸州には含まれないが、そのかわりディープサウスと言われる地域に属し、アパラチア諸州の一つであるテネシー州と境を接し、やはり聖書原理主義的な場所である。

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キリスト教が誕生し、まずカトリックとプロテスタントに分かれた。プロテスタントもいくつか分派し、そのうち最も聖書原理主義的なピューリタンがアメリカに流れついた後、奴隷解放を巡って南北2派に分かれた。この聖書原理主義の「総本山」は、言うまでもないが南部側(テネシー州ナッシュビル)にある。

日本も含む他の国のプロテスタントの中で、就中バプテスト派の中で、アメリカ(南部)のような、私の視点では常軌を逸したといえるような過激な思想を前面に出すところはまずない。日本のバプテスト教会はアメリカの過激ぶりを批判さえしている。つまりアメリカのバプテストだけがガラパゴス的に生き残り、純化したような状況なのだ。

そして、このバプテストを含む保守的なプロテスタントがアメリカの25%を占める。だからアメリカの大統領になるには、この人たちを無視することはできない。この人たちはとんでもない「大勢力」なのだ。そんなことは日本に住んでいると気づかない。それはそうだ。アメリカにいても意識しなければ気づかないのだから。

米東南部を巡る理解の更新(1)

バプティズムのメッカとしてのアメリカ東南部


これからキリスト教の話をする。アメリカを知るうえで絶対欠かせない知識だとは思うが、はっきり言って関心のない人には苦痛でしかないと思う。そのつもりで。

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アメリカ東南部については、フロリダ以外行ったことはなかったとはいえ少しは知っていたつもりだった。東部
13州とはかつてのイギリスの植民地であり(下表参照、太字は今回訪問)、1776年に独立が宣言され、1860年に南北戦争が起きた、といった中学高校で習うようなこともある程度は覚えていたし、アメリカに住んでいれば東南部一帯は政治的にかなり保守的であることも普通に知ることにはなる。


ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネチカット、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア、メリーランド、バージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア


しかし、アトランタに降り立ち、レンタカーを駆って大西洋に向け出発して間もなく、緑深い森の中を続く道路沿いに小さく質素な佇まいの教会 - その9割はBaptist Church(バプティストチャーチ)と書かれていた - 5分ごとに現れる様は異様だった(そしてこの光景は旅が終わるまで、基本変わらなかった)。


Church_in_SC

典型的バプテスト教会。画像検索でみつけたもの。車を降りて撮影することは躊躇われた。


「自分が米南部や東部に関して持っている知識、例えばディープサウス地域の黒人差別や保守性、1620年にメイフラワー号が到着した史実、そして1649年にイギリスで清教徒革命が起きた史実などとこの光景には何か関係があるのだろうか」


旅を始めて早々に、僕はそんなことを考えた。教会の多さに驚いてしまい、しかも関心を一旦根こそぎ持っていかれるなんて、旅を始める前までには予想もしていなかったことだった。

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ここで中学だったか高校だったかに習った「メイフラワー号アメリカ到着」やイギリスでの「ピューリタン(清教徒)革命」を簡単におさらいしたい。


ピューリタンとは、16世紀後半以後イギリス国教会と対立し、徹底した宗教改革を主張したプロテスタントの一派、正確にはカルバン派の人々だ。名前の通り聖書内容に対して「ピュア(原理主義的)」だから「ピューリタン」と呼ぶようだ。


清教徒革命はイギリスに留まったピューリタンがイギリスで起こした革命であるが、宗教の自由を求めて海外に新天地を求めた人もおり、その関連で最も有名な史実こそが1620年のメイフラワー号のアメリカ(マサチューセッツ)への到着というわけだ。

しかし、その史実だけではアメリカ南東部に多数の(バプテスト)教会があることの説明にはならない。そもそもイギリス人(ピューリタン)たちは、何故アメリカに信仰の自由を求めてやってこなければならなかったのか。その背景は何なのか、そこからして僕は詳しいことを知らなかった。かつて学生であり、受験生であり、20代の僕は塾で中学生に社会科も教えていたのになんと浅い知識だろうか。

旅の途中も旅から戻ってからも、僕はこの疑問を晴らすために色々調べた。それを以下に、なるべく端折って書くこととしたい(それでもかなり長いよ)。


 ***


1500年代前半、ドイツのマルティン・ルターらによってカトリック教会の改革を求める宗教改革運動が起きた(ルター、懐かしい。カトリック教会が行った「あなたの罪を金でなかったことにしましょう」っていうあの「免罪符」とセットで覚えたのだが、諸兄は覚えておいでだろうか)。


この時、ルター派に加え、ルターの言い分にさえ不満な急進派も加わって激烈にカトリックに対して抗議(英語でプロテスト)が行われたのだが、この抗議者たちのキリスト教に対する解釈や態度ないし思想並びにその派閥を「プロテスタント」と呼ぶようになったのだそうだ。


ザビエル

こちらはザビエル(スペイン人)。同じ1500年代のキリスト者だが、こちらはカトリック


ルターたちはこの抗議を契機に聖書に立ち返る福音主義を唱え始め(よってプロテスタントはイコール福音主義的という図式が成り立つ)、北方に広まり、1500年代中期にはデンマーク・スウェーデン・ノルウェーで国教となっていった。

また、ドイツの動きとほぼ同時期にスイスでも宗教改革運動が起こり、ジャン・カルバン(これも教科書に出てきたはず)が「自分の(鍛冶屋とかパン屋とかの)仕事を全うしろ。それでも神やイエス様に身を捧げたことにはなる。ただし生活は質素で禁欲的にな」という教えを説き、これがフランス・オランダ・イギリスへ広がった。


このカルバン派こそが今のアメリカのバプテスト派閥の最大勢力となった。以下は、ここまでの話に基づく系統図である。

 プロテスタント(福音主義=ルター)
  
バプテスト(強い聖書原理主義的な思想)
   
ジェネラル・バプテスト(アルミニウス)
   
パティキュラー・バプテスト(ジャン・カルバン)


上のアルミニウスという人は、「この世に生を受けた人ならば、キリストの恵みによって、少なくとも神からの呼び掛けや救いへの招きに対して応答する能力を持つ」と考えた人だという。要は信じれば誰にでも神の救いはある、ということだ。

 

一方カルバンは、「神は救済する人を予め決めている。よって教会にいくら寄付とかをしても救済されるかどうかはわからない。神はの人間の意思や行動で左右されない」と考えた人(予定説というらしい)なのだそうだ。

 

John Calvin

ジャンカルバン(Wikipediaより)


なんだこれは。厳しすぎるぞ。なんでこれが大衆に支持されるんだ?といぶかしく思った諸兄。僕もそう思った。実際、予定説では何をしても運命が変わらないことになるので、当時それを真に受けた人々は自分が救われるのかどうかを確かめたがったのだそうだ。そこにカルバンがぶつけてきた理屈が「職業召命説」だった。


「仕事は神から与えられたものであり、仕事に励み成功する人を神が救済リストから外しているはずはない」という考えだ。当時の宗教観では労働や蓄財は卑しいものとされていたのでこの考えは斬新であり、しかも一般の人々にモチベーションを与えた。そしてこれは資本主義には大変都合のいい解釈でもあった。


こうしてカルバンの思想は1500年代後半にイギリスにも波及し、腐敗・堕落(?)している英国国教会の内部でピューリタンと呼ばれる改革派が出現。イギリス国教会から分離することを主張する者と分離しないで内部教会改革を志す者とに分かれた。後者こそがアメリカにメイフラワー号で移民してきたピューリタンたちだった。


mayflower

Mayflower号とピューリタン(History.comより)


1600年代に入り大西洋を横断することが当たり前になった時代。カルバンに影響されたフランス人やオランダ人もアメリカに来たし、ルターに影響されたドイツ人たちも来た。こうして様々な国からプロテスタントの人々がアメリカにやってき、13のイギリス植民地が形成されていった。


驚いたことにイギリスは、各植民地に対しアパラチア山脈の西側を勝手に開拓してはならないと命じていたという(僕はこの史実を全く知らなかった)。このため、ピューリタンの入植からアメリカの独立までの長い間、彼らはアパラチア以東に居所が固定されていた。

そんな中で、故郷を捨てアメリカで人生を築いていくことになった各国出身の人たちの心のよりどころとなったのは、言うまでもなくキリスト教、正確にはプロテスタント、中でもカルバン主義であるパティキュラー・バプテストだった。


「額に汗して働くことは美徳であり、そういう人こそ神が救済してくれる」。そんな教えはこのアパラチア以東の地に住む彼らにとって辛い生活を頑張りぬける源泉になったのだろう。だからこそ、僕がドライブ中に見た協会は、10のうち9つがバプテスト教会だったのだ。「やけにバプテストが多いな」と思っていたら、そういうことだったのだ。

 

最後に、アメリカのバプテストのうちパティキュラー・バプテストの方は、さらに南部北部の二派に分かれていることを説明せねばなるまい。別れたのは1800年代半ば。そう。南北戦争の前だ。奴隷制を巡って対立し、分派したのだ。こんなに信心深い人たちが「奴隷は存在してもいい(とか悪い)」とかやってるわけで、人間は非常に訳が分からない存在だと思わざるを得ない。


はー、やっと説明が終わった。。端折ったわりに長すぎるだろう、我ながら。。。

 

ちなみに、プロテスタントであるバプテストの教会は非常に質素である。流麗な装飾が施された豪華な教会というのは基本的にその原理原則上ありえない。なぜならそういうのはカトリックの領分だからだ。欧州の教会が観光地化するほど美しいのは、欧州だからではない。カトリックだからだ。

バチカン、サンピエトロ寺院
(Wikiより)バチカンのサンピエトロ大聖堂。カトリックの総本山。絢爛豪華。

米東南部旅日記(9-最終回):第7日後半と最終日

75/3)後半と最終日(5/4)

アトランタ、そしてエピローグ

 

水族館を16:30に出て駐車場に行き、車を出してそのままホテルにチェックンした。ここはダウンタウンの高級ホテルということになるが、100ドル台で泊まれたという事実からその部屋のレベルは推し量れるだろう。そう、とにかく狭かった。それこそ日本の6畳間という感じだった。勿論僕らは一向に構わなかったけれど。

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アトランタのダウンタウンからの眺め。

 

夕飯をどこで食べるか。またもこの問題を解決しなければならなかったが、非常に難航し、はっきり決めずにホテルの外に出てみた。そして雰囲気的に良かったモダンメキシカンのレストランに入った。

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うまかったです。素敵な会話が出来ればなおのことですね。今店名が思い出せないけど
 

ここで、僕らは面白い会話を楽しむことが出来た。(   ..このような楕円のカウンターの右端の(  ..の部分に僕らは座っていたのだが、僕らの前に若い女性が座り、次いで楕円部分に中年夫婦が座った。5人が (   ::)・ のような陣形で座ったわけだ。


すまぬが会話風景や彼らの画像はない。


この旦那がよく喋る。マルガリータを何にするかを巡り独り言を始め、次いで横の若い女性を巻き込み、その後話はどんどん展開し、野球に行きついた。旦那は「B」という馴染みのあるロゴがついたキャップをかぶっていた。高確率でレッドソックスファンであった。彼の右横の若い女性も左横の奥様も大変楽しそうに野球の話をしていたので、僕も野球大好きの日本男児としてこれに加わった。


かつてレッドソックスの一員だった野茂、松坂、岡島などは勿論、彼はレッドソックスファンの視点から田中、イチロー、松井などに対する評価や思いを話してくれた。彼にとって松坂は世間が思うほど「悪い買い物」だとは思っていないとのことだった。僕はどうしても日本人としてイチローや松井などの日本人プレーヤーを応援するファンとしての視点でMLBを観てしまうことを断ったうえで、日本人がMLBに対してどのように評価しているかなどを伝えた。


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唐突だがアトランタ水族館のタイポ(打ち間違い)が面白かったので載せておきたい

MLBのことを話しただけではなかった。彼らはいずれもアトランタやその周辺に住んでいるが、旦那はボストン出身、奥さんはケンタッキー出身、若い女性もケンタッキー出身だった。僕はカリフォルニアに住む日本人という立場からアメリカの地域性なども話題にした。最も面白かったのは、旦那が本当にニューヨーカーを嫌っていたことだった。


僕は「ヤンキースとレッドソックスのライバル関係は日本でさえ有名だが、実際にレッドソックスファンがヤンキースファンをそこまで唾棄するような思いを持っていると聞いたのは初めです。何故そんな感情になるのでしょう」と尋ねた。


彼は「それはね、なんというか…、あいつらは傲慢なんだよ」と答えた。ニューヨーカーの傲慢さ。あまりにステレオタイプであり予想通りすぎた。しかし、まるで中華思想ではないかと思えるほど、ニューヨーカーはアメリカの、そして世界の中心にいるという意識が強いのだと彼は考えていた。その断片がヤンキースの金にものを言わせる補強に現れている、というわけだ。


まあ、ボストン人(ニューイングランド地方の人)がニューヨークが嫌いだというのは嘘ではないようだ。

会話が弾み、ビール2本、ワインをグラス4杯をあけてしまった。時間は10時を回っていた。

僕は非礼を許してほしいと事前に謝ったうえで、ナプキンに名前とメルアドを書き、旦那に渡した。旦那と若い女性はそれを確認しながら名刺を僕にくれた。旦那はなんと弁護士だった。会話中この陽気な弁護士に対し僕は好感を抱いていたが、何かあっても雇うのは難しいだろうななどと思った。

若い女性はアトランタからはかなり離れたサバンナという街にある広告代理店のマーケターだった。金曜の夜にアトランタに遊びに来てメキシカンレストランで一人ディナーをし、年上カップル2組と談笑する女性マーケター。とても素敵だ。知性的で宜しい。上からながらそう思った。

 

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今回は州の看板があまりなくて悲しかった

***

8日(5/4

アトランタ⇒OC


8時くらいの飛行機でLAXに向かった。飛行時間と時差により、LAX到着は昼の3時になった。帰途買い物をしたり夕食を取り、夜8時頃に帰宅した。行きたかった州、行きたかった特定の観光地や地域を訪問できたこの旅は、非常に楽しかった。


一方既述の通りこのアパラチア山脈の歴史、伝統、思想といったものは僕の常識を超え-それはいい意味でも悪い意味でも-それがある種複雑な後味を残すことになった。そのことは、これから書いていくことになる。

米東南部旅日記(8):第7日前半

7日前半(5/3

チャタヌーガ⇒アトランタ

 

チャタヌーガからアトランタまでは3時間くらいでついた。すぐにダウンタウンの駐車場に車を入れ、ワールドオブコカコーラ(World of Coca Cola)に行った。ここはコカ・コーラの歴史館のようなものであるが、その見せ方にエンターテインメント性を感じさせる様々な工夫が凝らされていた。

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Wrold of Coca Cola


まず、我々訪問者は、コカ・コーラのレシピを盗もうとする産業スパイという位置づけになっている。展示物を見たり覗いたりするとアラームが鳴ったり、ビデオカメラに捕捉されたりして、これがなかなか楽しい。

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真似っこへの当てつけもコカ・コーラ社の歴史だ

なお、このような設定が成り立つのは、コカ・コーラのレシピに関する一般人を含めた関心が高いからである。その配合成分およびその配合量を知る者は常に3名しかいないというエピソードがあるほか(本当のことのようだ)、たかが飲料水なのに誰もコカ・コーラの味を再現できないことを誰もが不思議に思うのである。

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レシピの秘密を守る最上の方法は「紙に書き落とすな」だそうだ

 

ペプシもほかの飲料メーカーも、その売上の違い一つとってもコカ・コーラに勝る味を出せているとはいえないわけだが、それならいっそコカ・コーラと同じ味にすればいい。コカ・コーラは製法特許を持っていないから同じ味にしても文句は言われない。しかし出来ない。誰もあの味を出すことが出来ない。不思議でしょうがないし、特許を取って情報を公開するのではなく、ただただ秘密を隠すコカ・コーラの戦略は正しかったと言わざるを得ない。

ちなみに、特許は情報を公開するかわり20年の保護を受ける。逆に言うと、20年たてば公開した情報は誰もが真似できる。どっちを採用するかは戦略と判断次第なので、適否や優劣は簡単には決められない。


さて、コカ・コーラの黒歴史に、その味を変えたことで消費者から強烈な非難を浴びた事件というのがある。1985年のことで、僕もこれははっきり覚えているし、僕自身、コーラーの味を変えるという愚に憤った一人である(その後しばらくはPepsiしか飲んでなかった)。

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特許とは関係ないが日本の食堂に配布するものがあったので

コカ・コーラ館は、正直にもこれに関する展示ブースを設けていた。その当時の消費者の怒りや元に戻せ運動などに関する映像や画像を見ながらスマホで検索してみたが、コカ・コーラ社はきちんとマーケティングを行ったうえで確かな手ごたえを得たからこそ味の変更を試みたことがわかった(この一連の味変更計画を「カンザス計画」というそうだ)。

つまり、消費者は味の変更を歓迎するはずだと信じていたわけだが、何故そうはならなかったのか。どうやら味の併存期間を置かずに一気に切り替えたことが原因らしい。ずっと慣れ親しんだ味を突然奪われ、マーケティングで得た統計では高評価が多かったという新テイストを押し付けられた消費者は、この措置をコカ・コーラ社の暴挙と責めた。


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味の変更の話とは関係ないが一応

結果、コカ・コーラ社は数か月で元の味(「Classic」と名付けられた)を復活させ、新テイストコークと併存状態が始まった。そして新テイストコークは徐々にフェードアウトしていき、今では存在しない(とはいえ2002年までアメリカ国内には販売されていた地域があったらしい)。


というわけで、「コカ・コーラ:テイスト変更事件」は、製品の刷新の時は併存期間が大事だという世界的教訓となった。

このようにいろいろな展示物を見、コカ・コーラ社が世界で展開している飲料を無料で試飲したりした後は(欧州で売られていた炭酸飲料がダントツでまずかったが名称失念。おそらくBeverlyだったような)、そのすぐ向かい側にアトランタ水族館に行った。


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この中のどれかがダントツでまずかった。

何故内陸にあるアトランタの水族館がアトランタ観光の目玉の一つだと様々なガイドに書かれてるのかはわからなかったが、コカ・コーラ館と近いということもあり見ることにした。これ以前に水族館に行ったのは、おそらく今から28年くらい前、場所は池袋のサンシャイン60ということで、アトランタ水族館が現在の水準からして凄いのかどうかを評価する指針を持たないのだが、僕にも妻にとっても楽しかったことは断言できる。


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アトランタ水族館(内陸)の魚たち

中でも水族館の中でも最大の水槽の前に陣取って大小さまざまな魚が泳ぐ姿を見ている時間はプライスレスだった。本当に無心になれたから。

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米東南部旅日記(7):第6日

6日(5/2

アッシュビル⇒チェロキー(SC) ⇒ギャトリンバーグ(TN)⇒チャタヌーガ(TN)

基本的にはグレートスモーキー国立公園を訪問し、チャタヌーガ(Chattanooga, TN)の観光スポットをいくつか訪れるという日になる。グレートスモーキー国立公園は、チェロキー(CherokeeSC)からギャトリンバーグ(GatlinbergTN)に向かう過程で通過することになる。

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東海岸の山における国立公園。存在自体がレア

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グレートにスモーキーなのでなかなか晴れません

名前の通り、スモーキーなので晴れていなかった。そして、滅多に晴れないのでそういう名前なのだそうだ。趣旨としてはシェナンドー国立公園と同じだし、これだったら他の一般の道でも十分だ。いや、むしろ一般の道がいい、まである。


チェロキーは、あのチェロキー族のチェロキーだ。車のチェロキーのチェロキーだ。かつて白人に迫害され、オクラホマまで追いやられたことは知っている人は少ないはずだ。僕も去年初めて本で読んだ。今はかなり立派な観光地になっている。

ここから北に向かって国立公園を踏破すると、自然とギャトリンバーグになる。そしてテネシー州に入る。ここは名前が示すように白人が、それもおそらくドイツ系移民が開いた街だと思う。ここも美しい山裾の観光地だったが、「ふむふむ」とは思うが「ほー」とまでは思わなかったのは、牧歌的と表現するのは若干無邪気すぎるような、意思を持って「現代」の受け入れを拒んでいるかのアメリカ南東部の景色に、この時の僕の興味が持っていかれていたからだと思う。

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ロッキー山脈の中に観光地と似た佇まい


ギャトリンバーグからチャタヌーガには基本インターステート75号で行くことになるが、途中事故で渋滞したことを勿怪の幸いとして、どこか適当なところで降りてみた。そしてI-75に並行する国道11号に乗り、名もない町を通り抜けた。そして渋滞が終わっているだろうあたりまで来たところで75号に再度入った。スマホでグーグルマップを見ればこういうことが出来る。ちょっと凄いと思うが、昔の人は「そんな予定がわかる旅して面白いのか?」と言うかも。

チャタヌーガで最初に訪れたのは「Rock City」だった。崖と洞窟の地形を生かして建てられた家や庭をベースに観光スポットに発展させた場所だ。

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B級好きな人にお勧め

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ほら。岩の中のお人形さん。ディズニーのB級的模倣のようなチープさ

入場券をもぎっていたおじさんが日本びいきでひとしきり日本人の勤勉性をほめてもらったあと1時間ほど経路に沿って中を見て回った。つまらなくはないが驚くほど面白くもなかった。趣向は凝らしているけどスケール感がいまいち乏しいんだろうと思う。


次に、地下1125フィートに滝が流れ落ちる「Ruby Falls」を訪問した。ここも素敵だったとは思うが案内の説明方法や話し方がチープだった。チャタヌーガは観光に力を入れて発展しているとのことだったが、何をとっても規模感はアメリカ西部の大自然にはかなわないわけで、ガイドなどまでチープであるとその2流感はいよいいよ隠せなくなる。確かに熱心だったり人懐っこいけど、それって中身がなくて単に商魂たくましいだけじゃん、と若干冷めてしまうのでやめてほしいと思った。


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地下の滝。ライトアップされて綺麗

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基本はこういう洞窟を歩いて回る

この後、僕らは一時取り壊しが計画されたが住民の反対で徒歩専用として存命できた橋に行った。テネシー川にかかるこの橋を一往復しながら、同じように歩き、ジョギングし、犬を散歩させ人々を見ながら、60億を超える人間の中で、僕らが偶然同じ空間をシェアしたこの人たちは、見かけ通り幸せなのかなぁと思ったまあこんなことは旅先でわざわざ感じることではないのだろうけど。

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テネシー川

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遊歩道的に使われている橋。僕が住んでいた赤羽の近くを流れる荒川にもほしい


19時過ぎにモーテルに行き、何をどこで晩飯に食べるべきか決められず結局ケンタをテイクアウトしモーテルで食べた。思いのほか旨かった。

2019/6/23追記
ケンタに行ったのは前日だった。この日行ったのは現地のスーパー「パブリックス(Publix)」。アメリカ南東部では一番数が多い(流行っている)ように思えた。

米東南部旅日記(6):第5日

第5日(5/1

マナッサス(Manassas, VA)⇒ベイカー(Baker, WV)⇒アッシュビル(Asheville, SC

 

この日のテーマは「ジョン・デンバー」だった。ご存知の人も多いと思うが、彼が歌った「Take me home,country roads」は以下のような歌詞だ(すげー意訳入れてます)。


 まるで天国のようなウェストバージニアよ
 聳えるブルーリッジ山脈、たゆたうシェナンドー川
 そこに宿る生命は茂る木々よりも古く、しかし彼の山々よりは若く
 そよ風のごとく脈々と繋ながれ行く


田舎道が我を故郷へと誘う

ウェストバージニアが 母なる山々が

我を誘う 故郷へと


子供のころに聞いたこの歌、オリビア・ニュートン・ジョンがカバーしてヒットしたこの歌。そこに歌われた「West Virginia」、就中「Ridge Mountains」と「Shenandoah River」に僕は行きたかった。

なお、このバージョンではジョンデンバーがこの曲を書いた共作者たちと歌っている。共作だったことも驚きだったが、実はジョンデンバーは後から曲作りに加わった(つまり大元は出来上がっていた)と知って二重に驚いた。


朝、まずはインターステート66号でマナッサスからウェストバージニア州ベイカー(Baker)という町に「無理に」入った。ここに「無理に」寄った理由は後で説明する。

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ウェストバージニア州に入ってすぐに出てきた史実を伝える案内板

さて、上の写真が示すようにドイツ人とスコティッシュアイリッシュが最初のウェストバージニアへの入植者だ。この「バージニア西部の場所」はフランス-インディアン戦争時に英国とフランスがここを境界に定めたとも書いてあるが、そう、当時ここはバージニア西部だったのであってウェストバージニアではなかった。ウェストバージニアは南北戦争を機にバージニアから分離して誕生した。

それでは無理にBakerに寄った理由だが、目当てのブルーリッジやシェナンドーなどの目的地に行くための合理的なルートを取ると、なんとウェストバージニアには一切入らないという衝撃的な事実がわかっていたからだ。それらは基本「ただのバージニア州」にあったのだ。以下がウィキペディアのシェナンドー川の説明だ。


バージニア州リバートンで、サウスフォーク川とノースフォーク川とが合流してシェナンドー川となり、アパラチア山脈のうちのブルーリッジ山脈の東側を北北東に流れる。合流点付近のわずかな区間のみウェストバージニア州の南東端に入り、バージニア州及びメリーランド州との州境近くのハーパーズ・フェリーでポトマック川に合流する。


シェナンドー国立公園も、町としてのシェナンドーもバージニア州に属し、川としてのシェナンドーは、その北の端っこがなんとかウェストバージニア州にかかっているだけ。なんでだ。

それだけではない。上に「ブルーリッジ山脈」が出てくる。もう一つのお目当ての場所だ。これも調べてもらうとわかるが、ウェストバージニア州にかかっていない。アパラチア山脈は確かにウェストバージニア州にかかっているが、アパラチアを構成するブルーリッジ山脈はかかっていないのだ。なんでだ。


ウェストバージニア州の歌じゃないじゃん、これじゃ。バージニア州の歌じゃん、基本。ジョン・デンバーは何故このような歌を歌ったのだろう。「Almost heaven, just Virginia」では意味も語呂もダメだったのか。

ウェストバージニア州民はこの歌を誇りにしており、州内の大学はアメフトなどのスポーツで勝つとこの歌を観衆が大声で歌う。しかし歌詞は虚偽に近い盛り方をしているわけで、バージニア州民がいつか横取りしようとしないか心配になる。

いすれにせよ、この後僕らは「バージニア州のシェナンドー国立公園」内を走るSkyline Driveに入った。


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シェナンドー国立公園。ここは「Skyline Drive」に入る入口

入り口付近には物凄い霧が発生しており、ゲートの係の人にこの霧は今日は晴れないのか尋ねると、「場所によります。晴れる場所もあるでしょう」とのこと。

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霧がひっきりなしに発生し、下降気流によって山肌を滑っていく

走ってみてわかったが、本当にその表現通りだった。場所により霧に覆われ、場所により霧が覆わない。コンスタントに霧を生み出すのは勿論水分と上昇気流。アパラチア山脈全体で見られる光景であり、砂漠の山々では絶対起きないだろう現象だった。


このSkyline Drive、走る気になればその南に続くブルーリッジパークウェイと合わせて物凄い距離になるのだが「山道につき、踏破するには3日くらいかかる」とのこと。

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ブルーリッジハイウェイ。入らなかったけど

なので、その10分の1の距離を走ったあと、僕らはパークウェイに並走するインターステート81号に、次いでインターステート26号に乗った。そして、その日の宿泊地であるアッシュビル(Asheville, SC)で一晩過ごした。


正直、このパークウェイ関係には特別な感動は覚えなかった。むしろウェストバージニア州に入るあたりの民家や人や車や家畜が存在する景色のほうが印象に残った。アメリカ南東部やアパラチア山脈周辺の州を走るときは、ぜひ州道や郡道レベルの道を走ってほしい。

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アパラチアの農村風景。僕の田舎の40年前のよう。時間が止まっているようで少し怖かった。

目に痛いほどの緑、山々、畑、牛、そのすべてが「近代化を少し拒否しているような古さ」を醸しているのを感じると思う。何しろこのあたりはこのシリーズの冒頭で書いたようにキリスト教最右派・保守派が暮らしている。あながち間違ってはいないと思う。

米東南部旅日記(5):第4日の2

4日(4/30)後半

ニューアーク(DE)⇒ワシントンD.C. ⇒マナッサス(VA

 

次いで訪れたのはスミソニアン博物館。テーマごとにいくつもの館があるのだけれど、全部見ることはできないので、航空機の発展を取り上げている館のみを集中して見た。過去から現在までのあらゆる飛行物体が展示対象になっており、それぞれに面白かったと思うが、僕的にはキルデビルヒルズでライト兄弟の記念公園を見たばかりだったし、最初スミソニアン博物館がライト兄弟の偉業を無視したという史実を事前に知っていたので、そういう意味でも1900年代前半の有人飛行に関しての展示に一番興味を引かれた。

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ライト兄弟は初めて成功させた動力飛行において260メートル飛んだ。1903年のことだ。一方それ以降急速に航空技術が進歩して、ライト兄弟の発明が陳腐化する中、リンドバーグは1927年に「スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋(ニューヨーク・パリ間、約5800キロ)を単独無着陸飛行することに初めて成功した。この両者がスミソニアン博物館では大きなスペースを取って取り上げられていた。

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ウィルバーとオービルのライト兄弟


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人類初の動力飛行に成功した機体。スミソニアンが受け入れるまでイギリスに行っていたという

初めて動力飛行に成功したライト兄弟と、それから25年で飛行距離を2万倍以上伸ばしたリンドバーグ。まあ、どちらも大したものだと思う。この人たちがいなかったら、現在の気軽さで、スピードで、価格で、飛行機に乗ることなんてできなかったのだから。LAXからアトランタまで3時間45分で、しかも一人4万円弱で往復するなんて出来っこなかったんだから。

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リンドバーグ。ライト兄弟の数百メートルの飛行から大西洋無着陸横断へ


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その機体。今に通じる感じがすでにある

スミソニアン博物館を後にし、4時ごろ駐車場に戻ったところ、例の係りのおじさんがいなかった。料金ゲートにはおばさんがいたので、「おじさんがいない。車の場所もわからないし、カギも預けてるし、どうしたらいい?」と聞くと、とある車を指さして、「ノックしてたたき起こせ」との指示。その車の窓から中を覗き込むと、係りのおじさん(但し別人)が寝ていた。


ノックに驚いて起きる別人さん。窓を開けたので事情を説明。「は?XXXがいないって?なんでだよ」とか言いながら僕らを真の係りのおじさんに導き(真の係りのおじさんもとある車の中で寝ていたのであった)、僕らの車は無事駐車場を出ることが出来た次第。さすが、アメリカだわ。


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横から見てもペンタゴンのあの形はわからない


ここからはさすがに車でないと移動できない距離にあるアーリントン墓地とペンタゴンに向かった。でも、アーリントン墓地では駐車スペースを発見できず、ペンタゴンは付近に駐車はできるものの中に入れるわけではないので、どちらも結局周囲から見物しただけに終わった。ペンタゴンの建物から軍人さんに混じって出てくる職員さんが「腹が出ていて眼鏡でよれよれスーツ」の人が多くてちょっとクスッとした。


19時過ぎ、ワシントンD.C.の南西数十キロに位置するマナッサス(Manassas, VA)に到着。ここにあるLa Quintaがこの日のモーテルだ。Yelpを見てもまともな食事ができる場所がないと判断し、グローサリーストアに行って総菜を買った。不思議なのだが、フィラデルフィアとD.C,の日に関しては、モーテル到着後の記憶が極端に薄い。恐らく本当に「アメリカの歴史」に触れて興奮していたのだろうと思う。

米東南部旅日記(4):第4日の1

4日(4/30)前半

ニューアーク(DE)⇒ワシントンD.C. ⇒マナッサス(VA

この日はワシントンD.C.を見る日、であった。8時過ぎにモーテルを出発し、2時間弱でD.C.に到着。早速お目当ての場所に歩いて向かうべく車を駐車。この、僕らが値段だけで判断して入った駐車場がすごかった。あぁ。こんなことを書いたら、もう駐車場の話を深掘りしないわけにはいかない。ワシントンD.C.の感想を早く書きたかったが、ちょっとこの駐車場の話をしたいと思う。


僕らが止めた駐車場は、超効率的にスペースを使う目的から、白線に沿って普通に車を駐車することを許さない駐車場だった。意味不?もう少し説明させてほしい。


ここはバレーパーキングではなく、空いているところに自由に止める形式の立体駐車場だった。だから僕も当然空いているところを探してグルグル回ったのだがどこも空いてなかった。それだけならわかる。「混んでいる」ということだから。でも、よく見ると、いやよく見なくても、駐車枠内に普通に停めている車が出られないような感じで別の車が止められている。え?まだ意味不?


要するに、白線で仕切られた駐車枠内に整然と駐車された車は、なんと他の車及び壁などで四方から挟まれ、完全に進路をふさがれ、バックしようが前進しようがもう出ようにも出られない状態であり、そのような移動不可能状態になった車が何十台もあったのです。


慌てて外に出ようとしていると、そこにおじさん係員がやってきて「俺が駐車しておくから。で、何時ごろここに戻る?」と。一瞬「は?」となったが、すぐに全て合点した。この超絶にイカれた駐車方法はこのおじさんが開発(?)したものだったわけだ。客が帰ってくる時間を聞いといて、「だとすれば、こいつの車はあの辺に置いとくだろ?で、3時ごろに奥からアレを引っ張り出すだろ?んで、4時にはアレとアレを引っこ抜いておく。こんな感じだな」とか考えておき、車を出すわけ。


まじで長い。なんで駐車場の話にこんなに行を割かねばならん。ということで、おじさんに車のキーを預け、外に出、ホワイトハウスをはじめ、D.C.の典型的なスポットを基本歩いて見て回った。行ったのは、ワシントン記念塔、ホワイトハウス、リンカーン記念堂、スミソニアン博物館、ペンタゴン、アーリントン墓地。

ワシントン記念塔は、ウィキペディアの文章をそのまま借りれば「ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された、アメリカ合衆国大統領記念碑の一つ」だ。何故塔の色が上部と下部で異なるのか、といった他の情報についても、詳しくはウィキペディアで調べてほしい。

 

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」と素直に思いました

僕らとしては、テレビや映画でしか見ていなかったこの記念塔を直に見れたことはもちろん非常に大きな思い出となった。その時調べた情報で、ワシントンが人格面も込みで傑出した政治家でることを知った。多くの日本人にとって、ワシントンは「ただの初代大統領」として覚えられるが、もっと人物を掘り下げられるべき人だと感じた。


ワシントン記念塔に来ると、もうリンカーン記念塔が視界に入ってくる。しかし僕らはホワイトハウスを先に見ることにした。ホワイトハウスは日本のニュース番組にさえ年間何十回と出てくるし、見間違いようがないほどにホワイトハウスだった。ここで歴代の大統領が話をしたんだなぁ、などと普通の感慨にふけった。

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」と素直に(以下略)

その一方、日本人を非常に多く見かけたことは意外だった。その時日本が10連休中だったのは知っている。けれど、「D.C.とか東海岸にこんなに日本人って来るんだ」、と普通に意外だったのだ。まあ「日本人は普通行きやすい西海岸に行くものだ」、的な偏った考えが大いに間違っているのだろう(実際在米日本人はニューヨークエリアのほうが多いって知ってるのに変な思い込みだ)。

そして、リンカーン記念堂。ここは一番感動したし、一番複雑な気持ちになった場所だった。まず、リンカーンは奴隷制度撤廃のために尽力した政治家であること。この考えに基づく北軍と、基づかない南軍によって南北戦争が起きたこと。そして奴隷解放を唱えた北軍が勝利したこと。こうしたことを考えれば、リンカーン記念堂に来たことで感動するのも仕方あるまい。

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この中にリンカーンが鎮座している

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」(以下略)

ところが、昨年フロリダに行ったことをきっかけに色々調べたことが頭をよぎった。アメリカの歴史は、インディアン迫害の歴史でもある。先住していたインディアンは、後から来た白人に多数殺され、土地を奪われた。リンカーンは自分が生きていた時代にそれをどう防ごうとしたか。何とリンカーンは、インディアンの迫害に関しては無関心だった。いや、むしろ加担した側だった。


僕はこのダブルスタンダードに当惑せざるを得なかった。南北戦争は奴隷制度の廃止を巡って起きたが、そもそも何で北部各州が奴隷制度反対だったかといえば、工業主体の産業構造上機械が単純労働者に取って代わり、奴隷を不要としたからだ。一方の南部(フロリダからバージニアまで)は農業主体の産業構造で、綿花などの栽培に労働力がいる。だから奴隷は必須だった。


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5~6行目に”All men are created equal”と書かれている

トーマスジェファーソンが1776年に書いたという、「All men are created equal」という有名な言葉。これを真に信奉する者と便宜的に使用する者が存在し、リンカーンはまさに後者ではないのか、との思いを、僕は記念堂の中で感動を覚えた直後に抱いてしまい、結局旅の間中払しょくしきれなかった。そして今でも。
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