アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

2019年06月

カリフォルニアの住宅事情 ‐ 4畳半があったなら

サンフランシスコはもとより他のカリフォルニアの主要地域と比較してみても、あるいは世界の大都市の比較してみても、実は東京は相当暮らしやすいということがわかります。

野菜や果物など確かに高いですし一平米当たりの家賃も安くはありませんが、東京なら風呂のないアパートは
2万円台だってあるし、風呂付でも4畳半なら4万円台からありますよね。アメリカにはそういう選択肢がないんですよ。4畳半に住むという発想自体がないから。

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2016年当時、売手側が「盛り付け」した現在の我が家のリビング。ローン残りあと27年。。。

アメリカで最も狭いフロアプランは「Studio」と言うようです。基本トイレも風呂も台所も全部含まれている仕切りの一切ない部屋のことで、日本の「押入れがない、またはごく小さな収納しかついていない一間だけのアパート」のイメージに最も近いものです。


単身で住む場合ならStudioで十分ですが、では一体何平米からStudioはスタートするのか。調べてみるとオレンジカウンティ界隈では大体190平方フィート後半から200平方フィートくらいからでした。平米で言うと18.6㎡であり、畳でいうと11.5畳となります。最小で11.5畳か。やはり広すぎません?


11.5畳のStudio、サンフランシスコだと大体18万円くらいからでしたので、面積半分なら9万円で済みます。4.5畳で計算すれば7万円くらいになります。これならなんとかなりますね。

ところがアメリカでは4.5畳の単位でアパートを作るという概念がない。でも「18万なんて払えない」という人も勿論大勢いますから、例えば3部屋ある家を3人で借りるといった「ルームシェア」が行われます。

これだと34万円の家賃を3人で分担できますので、Studio18万円払えなくともサンフランシスコで生きていけます。まあ僕はサンフランシスコもシェアすることも両方嫌ですが。


「え?3LDKになったら2LDKより高いんじゃないの?」と思われた方、実はそうでもないのです。アメリカは(いや、日本でも)、同じ地域の同じ外部環境なら、通常は部屋数ではなく広さが家賃の基準になるので、同じ家賃で2LDK3LDKも普通に存在し得るのです。


ちなみにOCですが、全域検索の結果、300平方フィート(28㎡≒17畳)のStudioで家賃13万円というのが最安値でありました。でも、エアコンもなく、洗濯機置き場もありませんでした(ちなみに、大家に黙って壁に穴をあけることは無理なので 大家に告げても無理だけど - 独自にエアコンを設置したくてもそれはできません)。


選択肢が豊富となる賃料帯は15万円くらいからで、平均的な広さは500平方フィート(46㎡≒28畳)くらいのようです。こうした「安いところ」にほぼ共通する特徴は、洗濯機が置けるスペースが部屋の中になく、その代わりに敷地内にコインランドリーがあるというものです。また、駐車スペースは青空駐車場となっているか、そもそも駐車場がないため路上駐車しかできないところもあります。


こうしたアパートがもし4.5畳単位で造られていたなら、賃料は24千円で済む計算になります。多少不便でも汚くても、安く済む選択肢があればいいのにと本当に思いますが現実にはないので、これからアメリカに来る皆さんは、賃料相場や希望する地域の治安などを事前によく調査することをお勧めします。


治安は犯罪マップなどでもわかりますが、Google Earthでその住所周辺を見てみるだけでも雰囲気がわかりますよ。だいぶ前に書いたエントリーで述べたように、花や芝生がよく整備された街は治安がよく、そうでないところは治安が悪い。この法則はほぼ鉄板です。

カリフォルニアの住宅事情‐サンフランシスコという狂気

前回で終了したアメリカ東南部の旅行記の後は、その地域の様々な意味での特性などに関する考察を載せる予定でしたが、ちょっと違う話から書いてみたいと思います。


 ***

タバコの価格の話を取り上げた際、「サンフランシスコで4人家族が普通に暮らすには、世帯年収1千万円ではもう無理だそうです」と書きましたが、もう「無理」とかそういう次元じゃないみたいですよ。BBC20187月のネットニュースで、既にこんなことが書かれてました。

 

“サンフランシスコとその近くのSan Mateo郡とMarin郡では、4人家族の世帯年収が117,400ドル(約1300万円)が「低所得」とみなされ、73,300ドル(約800万円)では「非常に低い所得」とみなされる。この数値はアメリカで最高となっている”


は?1300万円が低所得?800万円で「非常に低い」って何?そんなバカな話、あります?これがあるんです。家賃が高すぎて話にならないわけです。
 

サンフランシスコの高賃料は、6桁(10万ドル≒1070万円以上)の収入を得ている家族を「低所得」と規定する状況に至っている。2ベッドルームアパートの同市での適正市場賃料は、1ヶ月あたり3,121ドル(≒33.5万円)で、2008年の1,592ドルのほぼ2倍になっている。一方、オハイオ州シンシナティでは845ドル(9万円)だ。 この住宅価格の差(270%)は、家族の平均収入の差(50%)よりはるかに大きい。(同ウェブサイト記事より)

 

というわけで、カリフォルニア、就中サンフランシスコエリアでは人々の賃金は高騰しているのですが、それ以上に賃料や住宅購入価格が上がってしまっており、それを主要な原因として「4人家族の世帯年収が117,400ドル(約1260万円)が低所得とみなされ、73,300ドル(約790万円)では非常に低い所得とみなされる」という状況に至ったというわけです。

 

なんだかピンと来ませんので、世帯年収をわかりやすく1300万円とし、扶養家族2名で税金社会保険関係控除率が大体25%くらい(本当はもっと取られるかも。401Kとかで源泉されるお金とか含めてないし)としてシミュレーションしてみましょう。額はすべて年間の額とします。

 可処分所得:975万円(1300万×75%)

家賃

400万(34万円×12

食費

60万円(三食全て家で作ったとして月に5万円×12

車関連

96万円(普通のセダンをリースすると毎月2万円。燃料代も2万。旦那さんと奥さんで1台ずつ必要なので毎月8万×12か月)

水道光熱

48万円(上下水道が月7500円、電気7500円、ガス5千円)

通信費

36万円(テレビ&ネットが月1万円、スマホ4台で月2万円)


ここまでで640万円が使われた。残金は335万円。


これに加え、消耗品費、被服費、医療費 - 仮に健康保険は全額会社負担、支払うのは通院した場合の自己負担分のみとしてもなお - などは、いくら払いたくないと言っても払わざるを得ないだろう。これらを合計30万でやりくりすると(恐らくこの見積もりは甘すぎると思うが)、残金は305万円(学費は高校まで公立ならただ)。

車の保険は年費用を一括で支払うが、カリフォルニアで何かあったときに入っているべき保険の内容を考えると、ミニマムでも15万円(但し2台カバー)はかかると考えるので、残金は290万円。


勿論まだ生命保険代は入れてないし、遊興費も入れていないし、車、テレビ、パソコン、家具などの買い替えや修理費用も含めていない。アメリカ人が大好きなペット(基本犬)の食費や健康維持費も入れていない。車のリース時は大体普通のセダンで20万は払うことになる。

1300万円の年収なのに、確かにきつい。やっぱり家賃の400万が尋常じゃない。


それじゃぁ年収800万円だったらどうなるんでしょう。

税と社会保険関係の控除が20%として可処分所得は640万円。あれ?これだと上の家賃から通信費までの支出合計だけで640万円だから、もうこれ以上の支払いは無理。破綻だ。なんてことだ。

カリフォルニアに住みたい方々、サンフランシスコ界隈の住宅事情(値段)は最悪のようです。南カリフォルニアならまだなんとかなります。次回はそのあたりを書いてみましょう。

米東南部旅日記(9-最終回):第7日後半と最終日

75/3)後半と最終日(5/4)

アトランタ、そしてエピローグ

 

水族館を16:30に出て駐車場に行き、車を出してそのままホテルにチェックンした。ここはダウンタウンの高級ホテルということになるが、100ドル台で泊まれたという事実からその部屋のレベルは推し量れるだろう。そう、とにかく狭かった。それこそ日本の6畳間という感じだった。勿論僕らは一向に構わなかったけれど。

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アトランタのダウンタウンからの眺め。

 

夕飯をどこで食べるか。またもこの問題を解決しなければならなかったが、非常に難航し、はっきり決めずにホテルの外に出てみた。そして雰囲気的に良かったモダンメキシカンのレストランに入った。

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うまかったです。素敵な会話が出来ればなおのことですね。今店名が思い出せないけど
 

ここで、僕らは面白い会話を楽しむことが出来た。(   ..このような楕円のカウンターの右端の(  ..の部分に僕らは座っていたのだが、僕らの前に若い女性が座り、次いで楕円部分に中年夫婦が座った。5人が (   ::)・ のような陣形で座ったわけだ。


すまぬが会話風景や彼らの画像はない。


この旦那がよく喋る。マルガリータを何にするかを巡り独り言を始め、次いで横の若い女性を巻き込み、その後話はどんどん展開し、野球に行きついた。旦那は「B」という馴染みのあるロゴがついたキャップをかぶっていた。高確率でレッドソックスファンであった。彼の右横の若い女性も左横の奥様も大変楽しそうに野球の話をしていたので、僕も野球大好きの日本男児としてこれに加わった。


かつてレッドソックスの一員だった野茂、松坂、岡島などは勿論、彼はレッドソックスファンの視点から田中、イチロー、松井などに対する評価や思いを話してくれた。彼にとって松坂は世間が思うほど「悪い買い物」だとは思っていないとのことだった。僕はどうしても日本人としてイチローや松井などの日本人プレーヤーを応援するファンとしての視点でMLBを観てしまうことを断ったうえで、日本人がMLBに対してどのように評価しているかなどを伝えた。


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唐突だがアトランタ水族館のタイポ(打ち間違い)が面白かったので載せておきたい

MLBのことを話しただけではなかった。彼らはいずれもアトランタやその周辺に住んでいるが、旦那はボストン出身、奥さんはケンタッキー出身、若い女性もケンタッキー出身だった。僕はカリフォルニアに住む日本人という立場からアメリカの地域性なども話題にした。最も面白かったのは、旦那が本当にニューヨーカーを嫌っていたことだった。


僕は「ヤンキースとレッドソックスのライバル関係は日本でさえ有名だが、実際にレッドソックスファンがヤンキースファンをそこまで唾棄するような思いを持っていると聞いたのは初めです。何故そんな感情になるのでしょう」と尋ねた。


彼は「それはね、なんというか…、あいつらは傲慢なんだよ」と答えた。ニューヨーカーの傲慢さ。あまりにステレオタイプであり予想通りすぎた。しかし、まるで中華思想ではないかと思えるほど、ニューヨーカーはアメリカの、そして世界の中心にいるという意識が強いのだと彼は考えていた。その断片がヤンキースの金にものを言わせる補強に現れている、というわけだ。


まあ、ボストン人(ニューイングランド地方の人)がニューヨークが嫌いだというのは嘘ではないようだ。

会話が弾み、ビール2本、ワインをグラス4杯をあけてしまった。時間は10時を回っていた。

僕は非礼を許してほしいと事前に謝ったうえで、ナプキンに名前とメルアドを書き、旦那に渡した。旦那と若い女性はそれを確認しながら名刺を僕にくれた。旦那はなんと弁護士だった。会話中この陽気な弁護士に対し僕は好感を抱いていたが、何かあっても雇うのは難しいだろうななどと思った。

若い女性はアトランタからはかなり離れたサバンナという街にある広告代理店のマーケターだった。金曜の夜にアトランタに遊びに来てメキシカンレストランで一人ディナーをし、年上カップル2組と談笑する女性マーケター。とても素敵だ。知性的で宜しい。上からながらそう思った。

 

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今回は州の看板があまりなくて悲しかった

***

8日(5/4

アトランタ⇒OC


8時くらいの飛行機でLAXに向かった。飛行時間と時差により、LAX到着は昼の3時になった。帰途買い物をしたり夕食を取り、夜8時頃に帰宅した。行きたかった州、行きたかった特定の観光地や地域を訪問できたこの旅は、非常に楽しかった。


一方既述の通りこのアパラチア山脈の歴史、伝統、思想といったものは僕の常識を超え-それはいい意味でも悪い意味でも-それがある種複雑な後味を残すことになった。そのことは、これから書いていくことになる。

米東南部旅日記(8):第7日前半

7日前半(5/3

チャタヌーガ⇒アトランタ

 

チャタヌーガからアトランタまでは3時間くらいでついた。すぐにダウンタウンの駐車場に車を入れ、ワールドオブコカコーラ(World of Coca Cola)に行った。ここはコカ・コーラの歴史館のようなものであるが、その見せ方にエンターテインメント性を感じさせる様々な工夫が凝らされていた。

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Wrold of Coca Cola


まず、我々訪問者は、コカ・コーラのレシピを盗もうとする産業スパイという位置づけになっている。展示物を見たり覗いたりするとアラームが鳴ったり、ビデオカメラに捕捉されたりして、これがなかなか楽しい。

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真似っこへの当てつけもコカ・コーラ社の歴史だ

なお、このような設定が成り立つのは、コカ・コーラのレシピに関する一般人を含めた関心が高いからである。その配合成分およびその配合量を知る者は常に3名しかいないというエピソードがあるほか(本当のことのようだ)、たかが飲料水なのに誰もコカ・コーラの味を再現できないことを誰もが不思議に思うのである。

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レシピの秘密を守る最上の方法は「紙に書き落とすな」だそうだ

 

ペプシもほかの飲料メーカーも、その売上の違い一つとってもコカ・コーラに勝る味を出せているとはいえないわけだが、それならいっそコカ・コーラと同じ味にすればいい。コカ・コーラは製法特許を持っていないから同じ味にしても文句は言われない。しかし出来ない。誰もあの味を出すことが出来ない。不思議でしょうがないし、特許を取って情報を公開するのではなく、ただただ秘密を隠すコカ・コーラの戦略は正しかったと言わざるを得ない。

ちなみに、特許は情報を公開するかわり20年の保護を受ける。逆に言うと、20年たてば公開した情報は誰もが真似できる。どっちを採用するかは戦略と判断次第なので、適否や優劣は簡単には決められない。


さて、コカ・コーラの黒歴史に、その味を変えたことで消費者から強烈な非難を浴びた事件というのがある。1985年のことで、僕もこれははっきり覚えているし、僕自身、コーラーの味を変えるという愚に憤った一人である(その後しばらくはPepsiしか飲んでなかった)。

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特許とは関係ないが日本の食堂に配布するものがあったので

コカ・コーラ館は、正直にもこれに関する展示ブースを設けていた。その当時の消費者の怒りや元に戻せ運動などに関する映像や画像を見ながらスマホで検索してみたが、コカ・コーラ社はきちんとマーケティングを行ったうえで確かな手ごたえを得たからこそ味の変更を試みたことがわかった(この一連の味変更計画を「カンザス計画」というそうだ)。

つまり、消費者は味の変更を歓迎するはずだと信じていたわけだが、何故そうはならなかったのか。どうやら味の併存期間を置かずに一気に切り替えたことが原因らしい。ずっと慣れ親しんだ味を突然奪われ、マーケティングで得た統計では高評価が多かったという新テイストを押し付けられた消費者は、この措置をコカ・コーラ社の暴挙と責めた。


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味の変更の話とは関係ないが一応

結果、コカ・コーラ社は数か月で元の味(「Classic」と名付けられた)を復活させ、新テイストコークと併存状態が始まった。そして新テイストコークは徐々にフェードアウトしていき、今では存在しない(とはいえ2002年までアメリカ国内には販売されていた地域があったらしい)。


というわけで、「コカ・コーラ:テイスト変更事件」は、製品の刷新の時は併存期間が大事だという世界的教訓となった。

このようにいろいろな展示物を見、コカ・コーラ社が世界で展開している飲料を無料で試飲したりした後は(欧州で売られていた炭酸飲料がダントツでまずかったが名称失念。おそらくBeverlyだったような)、そのすぐ向かい側にアトランタ水族館に行った。


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この中のどれかがダントツでまずかった。

何故内陸にあるアトランタの水族館がアトランタ観光の目玉の一つだと様々なガイドに書かれてるのかはわからなかったが、コカ・コーラ館と近いということもあり見ることにした。これ以前に水族館に行ったのは、おそらく今から28年くらい前、場所は池袋のサンシャイン60ということで、アトランタ水族館が現在の水準からして凄いのかどうかを評価する指針を持たないのだが、僕にも妻にとっても楽しかったことは断言できる。


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アトランタ水族館(内陸)の魚たち

中でも水族館の中でも最大の水槽の前に陣取って大小さまざまな魚が泳ぐ姿を見ている時間はプライスレスだった。本当に無心になれたから。

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米東南部旅日記(7):第6日

6日(5/2

アッシュビル⇒チェロキー(SC) ⇒ギャトリンバーグ(TN)⇒チャタヌーガ(TN)

基本的にはグレートスモーキー国立公園を訪問し、チャタヌーガ(Chattanooga, TN)の観光スポットをいくつか訪れるという日になる。グレートスモーキー国立公園は、チェロキー(CherokeeSC)からギャトリンバーグ(GatlinbergTN)に向かう過程で通過することになる。

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東海岸の山における国立公園。存在自体がレア

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グレートにスモーキーなのでなかなか晴れません

名前の通り、スモーキーなので晴れていなかった。そして、滅多に晴れないのでそういう名前なのだそうだ。趣旨としてはシェナンドー国立公園と同じだし、これだったら他の一般の道でも十分だ。いや、むしろ一般の道がいい、まである。


チェロキーは、あのチェロキー族のチェロキーだ。車のチェロキーのチェロキーだ。かつて白人に迫害され、オクラホマまで追いやられたことは知っている人は少ないはずだ。僕も去年初めて本で読んだ。今はかなり立派な観光地になっている。

ここから北に向かって国立公園を踏破すると、自然とギャトリンバーグになる。そしてテネシー州に入る。ここは名前が示すように白人が、それもおそらくドイツ系移民が開いた街だと思う。ここも美しい山裾の観光地だったが、「ふむふむ」とは思うが「ほー」とまでは思わなかったのは、牧歌的と表現するのは若干無邪気すぎるような、意思を持って「現代」の受け入れを拒んでいるかのアメリカ南東部の景色に、この時の僕の興味が持っていかれていたからだと思う。

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ロッキー山脈の中に観光地と似た佇まい


ギャトリンバーグからチャタヌーガには基本インターステート75号で行くことになるが、途中事故で渋滞したことを勿怪の幸いとして、どこか適当なところで降りてみた。そしてI-75に並行する国道11号に乗り、名もない町を通り抜けた。そして渋滞が終わっているだろうあたりまで来たところで75号に再度入った。スマホでグーグルマップを見ればこういうことが出来る。ちょっと凄いと思うが、昔の人は「そんな予定がわかる旅して面白いのか?」と言うかも。

チャタヌーガで最初に訪れたのは「Rock City」だった。崖と洞窟の地形を生かして建てられた家や庭をベースに観光スポットに発展させた場所だ。

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B級好きな人にお勧め

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ほら。岩の中のお人形さん。ディズニーのB級的模倣のようなチープさ

入場券をもぎっていたおじさんが日本びいきでひとしきり日本人の勤勉性をほめてもらったあと1時間ほど経路に沿って中を見て回った。つまらなくはないが驚くほど面白くもなかった。趣向は凝らしているけどスケール感がいまいち乏しいんだろうと思う。


次に、地下1125フィートに滝が流れ落ちる「Ruby Falls」を訪問した。ここも素敵だったとは思うが案内の説明方法や話し方がチープだった。チャタヌーガは観光に力を入れて発展しているとのことだったが、何をとっても規模感はアメリカ西部の大自然にはかなわないわけで、ガイドなどまでチープであるとその2流感はいよいいよ隠せなくなる。確かに熱心だったり人懐っこいけど、それって中身がなくて単に商魂たくましいだけじゃん、と若干冷めてしまうのでやめてほしいと思った。


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地下の滝。ライトアップされて綺麗

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基本はこういう洞窟を歩いて回る

この後、僕らは一時取り壊しが計画されたが住民の反対で徒歩専用として存命できた橋に行った。テネシー川にかかるこの橋を一往復しながら、同じように歩き、ジョギングし、犬を散歩させ人々を見ながら、60億を超える人間の中で、僕らが偶然同じ空間をシェアしたこの人たちは、見かけ通り幸せなのかなぁと思ったまあこんなことは旅先でわざわざ感じることではないのだろうけど。

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テネシー川

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遊歩道的に使われている橋。僕が住んでいた赤羽の近くを流れる荒川にもほしい


19時過ぎにモーテルに行き、何をどこで晩飯に食べるべきか決められず結局ケンタをテイクアウトしモーテルで食べた。思いのほか旨かった。

2019/6/23追記
ケンタに行ったのは前日だった。この日行ったのは現地のスーパー「パブリックス(Publix)」。アメリカ南東部では一番数が多い(流行っている)ように思えた。

米東南部旅日記(6):第5日

第5日(5/1

マナッサス(Manassas, VA)⇒ベイカー(Baker, WV)⇒アッシュビル(Asheville, SC

 

この日のテーマは「ジョン・デンバー」だった。ご存知の人も多いと思うが、彼が歌った「Take me home,country roads」は以下のような歌詞だ(すげー意訳入れてます)。


 まるで天国のようなウェストバージニアよ
 聳えるブルーリッジ山脈、たゆたうシェナンドー川
 そこに宿る生命は茂る木々よりも古く、しかし彼の山々よりは若く
 そよ風のごとく脈々と繋ながれ行く


田舎道が我を故郷へと誘う

ウェストバージニアが 母なる山々が

我を誘う 故郷へと


子供のころに聞いたこの歌、オリビア・ニュートン・ジョンがカバーしてヒットしたこの歌。そこに歌われた「West Virginia」、就中「Ridge Mountains」と「Shenandoah River」に僕は行きたかった。

なお、このバージョンではジョンデンバーがこの曲を書いた共作者たちと歌っている。共作だったことも驚きだったが、実はジョンデンバーは後から曲作りに加わった(つまり大元は出来上がっていた)と知って二重に驚いた。


朝、まずはインターステート66号でマナッサスからウェストバージニア州ベイカー(Baker)という町に「無理に」入った。ここに「無理に」寄った理由は後で説明する。

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ウェストバージニア州に入ってすぐに出てきた史実を伝える案内板

さて、上の写真が示すようにドイツ人とスコティッシュアイリッシュが最初のウェストバージニアへの入植者だ。この「バージニア西部の場所」はフランス-インディアン戦争時に英国とフランスがここを境界に定めたとも書いてあるが、そう、当時ここはバージニア西部だったのであってウェストバージニアではなかった。ウェストバージニアは南北戦争を機にバージニアから分離して誕生した。

それでは無理にBakerに寄った理由だが、目当てのブルーリッジやシェナンドーなどの目的地に行くための合理的なルートを取ると、なんとウェストバージニアには一切入らないという衝撃的な事実がわかっていたからだ。それらは基本「ただのバージニア州」にあったのだ。以下がウィキペディアのシェナンドー川の説明だ。


バージニア州リバートンで、サウスフォーク川とノースフォーク川とが合流してシェナンドー川となり、アパラチア山脈のうちのブルーリッジ山脈の東側を北北東に流れる。合流点付近のわずかな区間のみウェストバージニア州の南東端に入り、バージニア州及びメリーランド州との州境近くのハーパーズ・フェリーでポトマック川に合流する。


シェナンドー国立公園も、町としてのシェナンドーもバージニア州に属し、川としてのシェナンドーは、その北の端っこがなんとかウェストバージニア州にかかっているだけ。なんでだ。

それだけではない。上に「ブルーリッジ山脈」が出てくる。もう一つのお目当ての場所だ。これも調べてもらうとわかるが、ウェストバージニア州にかかっていない。アパラチア山脈は確かにウェストバージニア州にかかっているが、アパラチアを構成するブルーリッジ山脈はかかっていないのだ。なんでだ。


ウェストバージニア州の歌じゃないじゃん、これじゃ。バージニア州の歌じゃん、基本。ジョン・デンバーは何故このような歌を歌ったのだろう。「Almost heaven, just Virginia」では意味も語呂もダメだったのか。

ウェストバージニア州民はこの歌を誇りにしており、州内の大学はアメフトなどのスポーツで勝つとこの歌を観衆が大声で歌う。しかし歌詞は虚偽に近い盛り方をしているわけで、バージニア州民がいつか横取りしようとしないか心配になる。

いすれにせよ、この後僕らは「バージニア州のシェナンドー国立公園」内を走るSkyline Driveに入った。


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シェナンドー国立公園。ここは「Skyline Drive」に入る入口

入り口付近には物凄い霧が発生しており、ゲートの係の人にこの霧は今日は晴れないのか尋ねると、「場所によります。晴れる場所もあるでしょう」とのこと。

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霧がひっきりなしに発生し、下降気流によって山肌を滑っていく

走ってみてわかったが、本当にその表現通りだった。場所により霧に覆われ、場所により霧が覆わない。コンスタントに霧を生み出すのは勿論水分と上昇気流。アパラチア山脈全体で見られる光景であり、砂漠の山々では絶対起きないだろう現象だった。


このSkyline Drive、走る気になればその南に続くブルーリッジパークウェイと合わせて物凄い距離になるのだが「山道につき、踏破するには3日くらいかかる」とのこと。

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ブルーリッジハイウェイ。入らなかったけど

なので、その10分の1の距離を走ったあと、僕らはパークウェイに並走するインターステート81号に、次いでインターステート26号に乗った。そして、その日の宿泊地であるアッシュビル(Asheville, SC)で一晩過ごした。


正直、このパークウェイ関係には特別な感動は覚えなかった。むしろウェストバージニア州に入るあたりの民家や人や車や家畜が存在する景色のほうが印象に残った。アメリカ南東部やアパラチア山脈周辺の州を走るときは、ぜひ州道や郡道レベルの道を走ってほしい。

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アパラチアの農村風景。僕の田舎の40年前のよう。時間が止まっているようで少し怖かった。

目に痛いほどの緑、山々、畑、牛、そのすべてが「近代化を少し拒否しているような古さ」を醸しているのを感じると思う。何しろこのあたりはこのシリーズの冒頭で書いたようにキリスト教最右派・保守派が暮らしている。あながち間違ってはいないと思う。

米東南部旅日記(5):第4日の2

4日(4/30)後半

ニューアーク(DE)⇒ワシントンD.C. ⇒マナッサス(VA

 

次いで訪れたのはスミソニアン博物館。テーマごとにいくつもの館があるのだけれど、全部見ることはできないので、航空機の発展を取り上げている館のみを集中して見た。過去から現在までのあらゆる飛行物体が展示対象になっており、それぞれに面白かったと思うが、僕的にはキルデビルヒルズでライト兄弟の記念公園を見たばかりだったし、最初スミソニアン博物館がライト兄弟の偉業を無視したという史実を事前に知っていたので、そういう意味でも1900年代前半の有人飛行に関しての展示に一番興味を引かれた。

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ライト兄弟は初めて成功させた動力飛行において260メートル飛んだ。1903年のことだ。一方それ以降急速に航空技術が進歩して、ライト兄弟の発明が陳腐化する中、リンドバーグは1927年に「スピリット・オブ・セントルイス号」で大西洋(ニューヨーク・パリ間、約5800キロ)を単独無着陸飛行することに初めて成功した。この両者がスミソニアン博物館では大きなスペースを取って取り上げられていた。

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ウィルバーとオービルのライト兄弟


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人類初の動力飛行に成功した機体。スミソニアンが受け入れるまでイギリスに行っていたという

初めて動力飛行に成功したライト兄弟と、それから25年で飛行距離を2万倍以上伸ばしたリンドバーグ。まあ、どちらも大したものだと思う。この人たちがいなかったら、現在の気軽さで、スピードで、価格で、飛行機に乗ることなんてできなかったのだから。LAXからアトランタまで3時間45分で、しかも一人4万円弱で往復するなんて出来っこなかったんだから。

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リンドバーグ。ライト兄弟の数百メートルの飛行から大西洋無着陸横断へ


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その機体。今に通じる感じがすでにある

スミソニアン博物館を後にし、4時ごろ駐車場に戻ったところ、例の係りのおじさんがいなかった。料金ゲートにはおばさんがいたので、「おじさんがいない。車の場所もわからないし、カギも預けてるし、どうしたらいい?」と聞くと、とある車を指さして、「ノックしてたたき起こせ」との指示。その車の窓から中を覗き込むと、係りのおじさん(但し別人)が寝ていた。


ノックに驚いて起きる別人さん。窓を開けたので事情を説明。「は?XXXがいないって?なんでだよ」とか言いながら僕らを真の係りのおじさんに導き(真の係りのおじさんもとある車の中で寝ていたのであった)、僕らの車は無事駐車場を出ることが出来た次第。さすが、アメリカだわ。


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横から見てもペンタゴンのあの形はわからない


ここからはさすがに車でないと移動できない距離にあるアーリントン墓地とペンタゴンに向かった。でも、アーリントン墓地では駐車スペースを発見できず、ペンタゴンは付近に駐車はできるものの中に入れるわけではないので、どちらも結局周囲から見物しただけに終わった。ペンタゴンの建物から軍人さんに混じって出てくる職員さんが「腹が出ていて眼鏡でよれよれスーツ」の人が多くてちょっとクスッとした。


19時過ぎ、ワシントンD.C.の南西数十キロに位置するマナッサス(Manassas, VA)に到着。ここにあるLa Quintaがこの日のモーテルだ。Yelpを見てもまともな食事ができる場所がないと判断し、グローサリーストアに行って総菜を買った。不思議なのだが、フィラデルフィアとD.C,の日に関しては、モーテル到着後の記憶が極端に薄い。恐らく本当に「アメリカの歴史」に触れて興奮していたのだろうと思う。

米東南部旅日記(4):第4日の1

4日(4/30)前半

ニューアーク(DE)⇒ワシントンD.C. ⇒マナッサス(VA

この日はワシントンD.C.を見る日、であった。8時過ぎにモーテルを出発し、2時間弱でD.C.に到着。早速お目当ての場所に歩いて向かうべく車を駐車。この、僕らが値段だけで判断して入った駐車場がすごかった。あぁ。こんなことを書いたら、もう駐車場の話を深掘りしないわけにはいかない。ワシントンD.C.の感想を早く書きたかったが、ちょっとこの駐車場の話をしたいと思う。


僕らが止めた駐車場は、超効率的にスペースを使う目的から、白線に沿って普通に車を駐車することを許さない駐車場だった。意味不?もう少し説明させてほしい。


ここはバレーパーキングではなく、空いているところに自由に止める形式の立体駐車場だった。だから僕も当然空いているところを探してグルグル回ったのだがどこも空いてなかった。それだけならわかる。「混んでいる」ということだから。でも、よく見ると、いやよく見なくても、駐車枠内に普通に停めている車が出られないような感じで別の車が止められている。え?まだ意味不?


要するに、白線で仕切られた駐車枠内に整然と駐車された車は、なんと他の車及び壁などで四方から挟まれ、完全に進路をふさがれ、バックしようが前進しようがもう出ようにも出られない状態であり、そのような移動不可能状態になった車が何十台もあったのです。


慌てて外に出ようとしていると、そこにおじさん係員がやってきて「俺が駐車しておくから。で、何時ごろここに戻る?」と。一瞬「は?」となったが、すぐに全て合点した。この超絶にイカれた駐車方法はこのおじさんが開発(?)したものだったわけだ。客が帰ってくる時間を聞いといて、「だとすれば、こいつの車はあの辺に置いとくだろ?で、3時ごろに奥からアレを引っ張り出すだろ?んで、4時にはアレとアレを引っこ抜いておく。こんな感じだな」とか考えておき、車を出すわけ。


まじで長い。なんで駐車場の話にこんなに行を割かねばならん。ということで、おじさんに車のキーを預け、外に出、ホワイトハウスをはじめ、D.C.の典型的なスポットを基本歩いて見て回った。行ったのは、ワシントン記念塔、ホワイトハウス、リンカーン記念堂、スミソニアン博物館、ペンタゴン、アーリントン墓地。

ワシントン記念塔は、ウィキペディアの文章をそのまま借りれば「ジョージ・ワシントンの名誉ある功績を称えて建造された、アメリカ合衆国大統領記念碑の一つ」だ。何故塔の色が上部と下部で異なるのか、といった他の情報についても、詳しくはウィキペディアで調べてほしい。

 

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」と素直に思いました

僕らとしては、テレビや映画でしか見ていなかったこの記念塔を直に見れたことはもちろん非常に大きな思い出となった。その時調べた情報で、ワシントンが人格面も込みで傑出した政治家でることを知った。多くの日本人にとって、ワシントンは「ただの初代大統領」として覚えられるが、もっと人物を掘り下げられるべき人だと感じた。


ワシントン記念塔に来ると、もうリンカーン記念塔が視界に入ってくる。しかし僕らはホワイトハウスを先に見ることにした。ホワイトハウスは日本のニュース番組にさえ年間何十回と出てくるし、見間違いようがないほどにホワイトハウスだった。ここで歴代の大統領が話をしたんだなぁ、などと普通の感慨にふけった。

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」と素直に(以下略)

その一方、日本人を非常に多く見かけたことは意外だった。その時日本が10連休中だったのは知っている。けれど、「D.C.とか東海岸にこんなに日本人って来るんだ」、と普通に意外だったのだ。まあ「日本人は普通行きやすい西海岸に行くものだ」、的な偏った考えが大いに間違っているのだろう(実際在米日本人はニューヨークエリアのほうが多いって知ってるのに変な思い込みだ)。

そして、リンカーン記念堂。ここは一番感動したし、一番複雑な気持ちになった場所だった。まず、リンカーンは奴隷制度撤廃のために尽力した政治家であること。この考えに基づく北軍と、基づかない南軍によって南北戦争が起きたこと。そして奴隷解放を唱えた北軍が勝利したこと。こうしたことを考えれば、リンカーン記念堂に来たことで感動するのも仕方あるまい。

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この中にリンカーンが鎮座している

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「おー!テレビで何回も見たやつだぁ」(以下略)

ところが、昨年フロリダに行ったことをきっかけに色々調べたことが頭をよぎった。アメリカの歴史は、インディアン迫害の歴史でもある。先住していたインディアンは、後から来た白人に多数殺され、土地を奪われた。リンカーンは自分が生きていた時代にそれをどう防ごうとしたか。何とリンカーンは、インディアンの迫害に関しては無関心だった。いや、むしろ加担した側だった。


僕はこのダブルスタンダードに当惑せざるを得なかった。南北戦争は奴隷制度の廃止を巡って起きたが、そもそも何で北部各州が奴隷制度反対だったかといえば、工業主体の産業構造上機械が単純労働者に取って代わり、奴隷を不要としたからだ。一方の南部(フロリダからバージニアまで)は農業主体の産業構造で、綿花などの栽培に労働力がいる。だから奴隷は必須だった。


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5~6行目に”All men are created equal”と書かれている

トーマスジェファーソンが1776年に書いたという、「All men are created equal」という有名な言葉。これを真に信奉する者と便宜的に使用する者が存在し、リンカーンはまさに後者ではないのか、との思いを、僕は記念堂の中で感動を覚えた直後に抱いてしまい、結局旅の間中払しょくしきれなかった。そして今でも。

米東南部旅日記(3):第3日

3日(4/29

バージニアビーチ(VA)⇒デルマーバ(Delmarva)半島⇒フィラデルフィア(PA)⇒ニューアーク(DE

 

例によって出発前にビーチに出向き、写真を撮ってきた。

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朝の浜辺。写真以上に美しかった

ここは美しい砂浜だと本当に思う。「これからも発展していくんだろうなぁ、また来るかもしれないなぁ」と写真を撮りながら思った(この文章は5月中に書いていたが、記事をアップする作業をしていたのは6月上旬だった。そのときバージニアビーチ市庁舎で職員による乱射事件があり、12名が死んだ。なんてことだ…)


バージニアビーチからフィラデルフィアに北上するこの日のハイライト第1弾は、何と言っても国道13号線の海底トンネルと海上橋だった。まずは景色。これが素晴らしい。海上橋においてはキーウェストのセブンマイルブリッジのような光景が楽しめる。

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海底に入るところ

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デルマーバ半島に上陸

そして地理的な面白さ。何せ、海を渡って上陸する半島の名前はデルマーバ(Delmarva)である。名前の由来は、この半島にDelawareMarylandVirginiaVA3州が存在することによる。この旅を計画し始めるまで、そんなことは全く知らなかったが。


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バージニアビーチと半島が海底トンネルで結ばれていることを見事に表した案内板

半島に上陸後、とにかく国道13号を北上するとバージニアを超え、メリーランドを超え、デラウェアに至る。そしてこの半島の付け根部分に到達してからしばらくしてフィラデルフィアに着いた。アトランタからフィラデルフィアまで1600キロ強。イメージでは結構遠いように感じていたが、計画通り「あっさり着いた」感じがした。


ということで、この日のハイライト第2弾はフィラデルフィアである。2時ごろダウンタウンに到着するとすぐに車を駐車場に停め、歩いてレディング・ターミナル・マーケット、市庁舎、独立記念館・自由の鐘、クライストチャーチを見て回った。ほかにも見どころはあるのだろうがキリがないので、今回はこれだけしか見ないことにした。


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マーケット内部

レディング・ターミナル・マーケットは要するに食い物屋や食材屋が集まっている場所で、ここにはおいしいフィリーステーキサンドを売る店が入っているとのことだった。マーケット内にはジモピーも旅行者も等しいポーションでいたので、扱っているものの質に間違いはないのだろうと思った。

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フィラデルフィア市庁舎

市庁舎は美しかった。なるほど、観光スポットになるわけだ。そして独立記念館と自由の鐘。これらはアメリカの歴史に触れる旅にあって無視できない。誰もが学んだ「1776年、アメリカがイギリスから独立を宣言」、「トーマスジェファーソン、独立宣言の文章を起草」、「ジョージワシントン、アメリカ初代大統領になる」。こうしたことの舞台がここだ。


僕が浅学ゆえに知らなかったことも多かった。「ベンジャミン・フランクリンは避雷針を発明した」ことは知っていたが、この人が優れた政治家でもあり、独立宣言の最初の署名者の一人だということは全く知らなかった。

 

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自由の鐘(The Liberty Bell)


また、自由の鐘というものが存在し、様々な場面で鳴らされていたが、その中でも最も有名な場面は、177678日、フィラデルフィア市民にアメリカ独立宣言の朗読を聞かせるべく鳴らされたときだったとのことだ。74日の独立宣言署名から4日後、フィラデルフィアの市民に「諸君、聞きなさい。我々は英国から独立したぞ」と言うためにこの鐘は鳴らされた。間違いなく歴史の重みを感じた。

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独立宣言書

もう一つ、過日気づいたことがあった。僕は学生時代から30歳くらいまでイギリスの6070年代のコメディー番組「モンティパイソン・フライングサーカス」をよく観ていたが、この番組の出だしに使われている曲がThe Liberty BellMarchだったのだ。聞いたことがあったがこの曲のタイトルは知らなかった。


一方『The Liberty Bell Marchは当然ながらフィラデルフィアの自由の鐘をモチーフにして1893年に作られた曲だったがそのメロディーは聞いたことがなかった。そしてタイトルとメロディーが合致し、物凄いことに気付いたと思って興奮しながらこの話を書き出してみたが、急速に「だからどうした」との思いが強まったので、もうこの話は終えたい。

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クライストチャーチ。訳すと「キリストの教会」ということになる。当たり前ではないのか

クライストチャーチは1695年に創建された教会だとのことで、5代将軍徳川綱吉の頃の江戸時代に作られたもの。これもそれなりにすごいと思う。その中は荘厳でもきらびやかでもなく、ただ静かに時が流れていた。


こうして19時を過ぎた。夕ご飯をどうしようか悩んだ末、フィラデルフィアにいるのに名物のフィリーステーキサンドを食べないというのはダメだと思ったので、レディング・ターミナル・マーケットでフィリーステーキを買おうかと思った。

だが、Yelpで調べた結果、ダウンタウンエリアの1位に選ばれていた店がマーケットから10分ほど歩いたところにあると知り、そこで買ってモーテルで食べることにした。その場で食べてもいいのだけれど、モーテルのチェックインがあまりに遅れるとキャンセルされることもあるので、「少し冷えてもいい」とテイクアウトを選択した。

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店名はCleavers。マジうまいです。急いで!

購入後、急ぎ足で駐車場に行き、フィラデルフィアの南西数十キロに位置するニューアーク(Newark)に取っていたモーテルに急行。早速部屋に入ってかぶりつく。うまい!これは凄かった。僕の地元のOC地域にもフィリーステーキサンドを出す店はあるけれど、ちょっと次元が違った。

この日、前夜の中華の食べ残しもあったので少しだけこのおいしいフィリーを残してしまったのだけど、翌日の夜に食べたらそれでさえうまかった。これはお勧めする。

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本家。西新宿にあるほうは真似ですよ

米東南部旅日記(2):第1日と第2日

1日(4/27

LAX⇒アトランタ(GA)⇒チャールストン(SC)⇒ノース・マートルビーチ(NC


前日(26日金曜)に会社を早めに出て空港(LAX)に行き、そこから午後10:05発のデルタ便でアトランタに向かった。数十分の遅れ、約4時間のフライト、そして3時間の時差を足して現地には朝6時ころに到着。7時過ぎにはアトランタのレンタカー屋を出て東に向けて走り出し、ゴルフで有名なオーガスタは通過し、まずサウスカロライナ州チャールストンという街を見学した。

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チャールストンの海を臨む公園の碑文


南北戦争の話になれば絶対出てくる「サムター要塞」を見るつもりだったが、事前の調査不足からそこにはフェリーで行かねばならないとその場で気づき、もっぱら街を歩いて回った。古いながらよく手入れされたゴージャスな民家、教会、そして石畳の歩道。とても美しい街だった。情緒がある街だった。

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教会

奴隷制度に依拠して行われた農業(学校で学んだプランテーションってやつ)やそれに付随する貿易がもたらした富により発達した南部の街の代表例であるが、それを知っていてもなお、その美しい佇まいを今に引き継いできたことは素晴らしいことだと思った。

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 チャールストンの風景


再度ゆっくりと訪れたい街であることを確認した後、数時間のドライブで今日の宿泊地であるマートルビーチ(正確にはノース・マートルビーチ)に着いた。この街は、夕飯の時間に夕飯を食べるのに都合のいいロケーションだったために選んだに過ぎないが、ビーチ自体はきれいだった。但し特色もなかったが。


泊まったモーテル(ベストウェスタン)は、まさにビーチまで歩いて数十秒というロケーションだが、そのボロさには辟易した。古いのはいいけど、バスタブの機能不全(タブの栓がない)や遮音性が極端に低い(つまり外がうるさい)のは困る。チェックイン後すぐにYelpで探したイタリアンで食事をした。結構いけた。期待していなかったからなおのことだった。



2日(4/28

マートルビーチ⇒ウィルミントン(NC)⇒キルデビルヒルズ(NC)⇒バージニアビーチ(VA


出発前にビーチに行き写真を撮った。本当に何の変哲もないビーチだなぁと思いながらよく見たらクラゲが打ち上げられていたのでその写真も撮ってみた。

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いや、なんか肉厚でうまそうなクラゲでした

「このビーチでの最高の被写体はクラゲか」と思った途端シニカルな笑いがこみ上げたが、「縁あって訪問した土地じゃないか」と思い直し、再度光景を目に焼き付けてから僕らは北上を開始した。


ノースカロライナ州ウィルミントンは、戦艦ノースカロライナが係留されているということで立ち寄った街だ。太平洋戦争末期には日本本土に対する艦砲射撃も行ったとのことで、船には旭日旗のシールが貼られていた。恐らく撃ち落とした日本機の数を示しているのだろう。

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 赤いところが旭日旗

僕らは戦艦の中には入ることなく、その外周を写真に収めながら太平洋戦争に最中にあった祖先や祖国はどんな感じだったのかを数十秒想像し、さらに北へと進んでライト兄弟が初めて動力飛行に成功した地、キルデビルヒルズを訪問した。

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兄弟


国立公園となっているライト兄弟のこの初飛行跡地は素晴らしかった。また、ここに至るまでの景観も素晴らしかった。キルデビルヒルズはアウターバンクスという大西洋に沿って点在する小さな島や砂州の連なりにあり、大西洋沿いの道も勿論素晴らしいし、アウターバンクスまで来るのに使った国道64号線も大変素晴らしかった。

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水上の道。海か川かを調べるとここは川だと出たが大西洋至近なので本当かどうか不明


さて、ライト兄弟であるが、こういうところに来るとそれまでうろ覚えだった知識を補強したくなるもので、その場で「ライト兄弟」をググってみたりするわけだ。すると、確かに1903年に世界初の有人動力飛行という偉業は達成したけれど、「機械が飛ぶはずない」という当時のトンデモ常識から識者にさえ非難されたり、館長の私怨などによりスミソニアン博物館から長期間無視されたり、自分たちの偉業の直後から急速に発展した飛行技術に兄弟は全くついていけなくなってしまったりと踏んだり蹴ったりだったらしい。

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 こうして彼らは動力飛行を成し遂げた

しかしこの場所自体は本当に素晴らしいところだった。こういうのを国立公園として保護することは正しいと本当に思う。僕と妻は、春としてはやや強めの日差しを浴びながら、ライト兄弟が100年以上も前に有人動力飛行に成功した、いやその前に何度も失敗し、経験を重ねたこの場所の絵と、音と、においを満喫した。

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 ライト兄弟は飛んだ。奥にある石は飛行トライごとの航続距離を示す

この日の宿泊地はバージニア州バージニアビーチだった。海辺近くのモーテルが近づいてくるとなんだか異様な感じがしてきた。ちょっと怖い見た目のお兄さんやお姉さんがやたらに多かったからだ。予定よりかなり遅れて7時ごろモーテルに着いて車を駐車し、ドアを開けようとするとそこにはモーテルの従業員が何やらリストのようなものを持って立っていて「宿泊者ですか?お名前を教えてください」と尋ねてきた。


名前を言うと、「ありがとう、お待ちしていました」と言うなり「今日はイベントがあるのですごい人数がここに来ていまして、無断で駐車しようとする人が後をたちません。そこでこうして監視しているわけです」とのこと。一体どういうイベントなのか、と言えば、それが以下のようなもの。黒人の怖い系のファッションの人が多かったのはそういう事情だったのか、と納得。

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詳細はわからないが「Happy」を歌ったPharrell Williamsがいる。混むはずだ。

ファッションは怖い人が多かったけど、非常にきれいなビーチで遊歩道も発達し大勢の人たちが散歩やサイクリングを楽しんでいた。モーテル(エコノロッジ)の部屋からも遊歩道を含むオーシャンビューが楽しめたこともあり、僕らは非常にこの街を好感した。

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夕暮れ時のバージニアビーチ沿いの遊歩道。日が暮れてもベンチに座って語らうカップルがいた

夜はまたもYelpで色々検索の果て、家族経営のチャイニーズレストランを選択。テイクアウトしてモーテルで食べたが量が多すぎてとても完食には至らず、クーラーボックスに入れて翌日も持ち歩くこととあいなった。
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