アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

2014年07月

2007年、アメリカ プチ一周ドライブ(その三)

7/12から14の、大体2000kmくらいの行程を書くこととする。

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7/12
ナッシュビルはカントリー音楽のメッカだ。2005年に訪問したのに殆ど何も見ることができなかったので、午前中は町の様子を見て回った。

まずはレコード会社や音楽出版社が集まるミュージックローという地域を見た。僕は昔は音楽家で、その後サラリーマンとして放送局に勤務し、途中音楽出版社に出向したような人間なので興味津々だった。写真のように通り名には名ギタープレーヤーのチェット・アトキンス(ビートルズのジョージハリスンが多大な影響を受けた)の名が冠されていたりと、ここはまさに「音楽業界の町」だった。

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ところで、2007年ころから2012年くらいまで、僕ら夫婦は「アメリカンアイドル」に夢中だった。この2007年は3位に入ったメリンダ・ドゥーリトルという黒人女性が僕らのお気に入りで、この人がナッシュビル出身だったのでここに来たという意味合いもあった。実際、ナッシュビル市が彼女の3位入賞の功績を称えて名付けた道路を訪問するのはここでの最重要の目的だった。

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この後には「プレスリーの町」であるメンフィスに行くことにした。普通に行くのはもったいないのでミシシッピやアラバマ経由で行くことにし、途中アラバマのサービスエリアで降りると以下のような碑が。

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「アラバマ。我々は何が何でも我らが権利を守る」と書かれている。案内係の黒人女性に「あの碑の文言の意味は?」と尋ねると「白人の権利のことよ。黒人の奴隷制を守ろうとした南軍の白人が言う権利のことだから」とのことだった。今でも南北戦争の遺恨が残っているのだからアメリカは複雑だ。

この道中ではずせない曲は勿論リナードスキナードの「Sweet Home Alabama」だ。しかしこの曲も南部賛美の歌だ。しかもリベラルのニール・ヤングを批判する歌詞がてんこ盛りの(実際は別にそんな仲は悪くなかったそうだけど)。

15:00、ようやくメンフィスに着いたが、なんというか非常にあからさまに観光地化され、あまりいいイメージが湧かなかった。

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エルビスがヒット曲をレコーディングしたサンスタジオは、中は土産物屋だった。「親切な人」が中から出てきて「写真を撮ってあげる」と言うのだが、その代わり何か買って行けという。いや、結構ということでエルビスの家「グレースランド」に行くと、ここは有料博物館化されていて、建物の奥に行くにはお金を払う必要があった。そこまでエルビスが好きではなかったということもあるが、やはりあからさま過ぎて興が削がれてしまったので中には入らなかった。下の写真はエルビスの家の庭だ。久しぶりに確かめてみたが、なんとこれしか撮っていなかった。

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メンフィスに行くならこの曲。チェックベリーの「Memphis Tennessee」(またはビートルズの同曲カバー)。

7/13
ヒューストンに向かった。途中凄まじい雨にやられたが、かなりのアメリカ人はそれでも法定速度以上で走る。僕には無理だった。ヒューストンではNASAを見たかったが、すでにフロリダに拠点の大半が移っていると知り、街をドライブするだけで終わった。写真がないのだが、記憶ではそんなに悪い印象はなかった。

7/14
もう明確な目的地はなかった。サンアントニオを見て、あとは広大なテキサスのドライブを楽しむだけという感じだった。サンアントニオには比較的有名なアラモ砦があり、僕らも見学した。

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その後は「走っても走ってもテキサス」状態を楽しみ、日が沈む直前にスイートウォーター(Sweet Water)という町のモーテルに到着。

2007年、アメリカ プチ一周ドライブ(その二)

今回は下のような経路でナッシュビルまで行く過程を書きたい。

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7月8日
この日は、2005年にモンタナ州で出会ったLoss一家のミネソタ州ブレイナードにあるお宅にお邪魔し、それから州都セントポール・ミネアポリスに宿泊というスケジュールだった。サウスダコタ州ブルッキングスからミネソタはすぐ鼻の先だがノースダコタにも近いので、あえて一旦ノースダコタに入るルートでブレイナードを目指した。

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このあたりは冬は氷点下20度が当たり前の地域なので「住むか?」と言われれば恐らく寒さが苦手な僕は住まないだろうという地域だが緑と湖沼に恵まれていて、この日は北国っぽいどよんとした雲や小雨に祟られた一日だったけれどそれなりに砂漠好きの僕も楽しくドライブした。

約束通り、14:00にトム、カーラ、ジョーイ、アニーの4人家族、Loss家に到着。歓待を受けたが、驚くことが多かった。中でも、彼らの家の庭で実弾を撃っている事実を知ったのは驚愕の一言だった。「Kazz、銃は撃ったことある?撃ってみる?」と誘ったのは当時5歳くらいのジョーイだった。この質問への答えは「あるわけない」なのだが、親父もお袋も自らライフルを撃ち出し、ボーガンまで持ち出してきた。凄い展開だ。

お言葉に甘えて(?)撃たせてもらったが、構えが間違っていたらしく反動でスコープが左目を直撃した。大丈夫?と憐れんだ目で聞くジョーイに「全然平気!」と答えたが、少ししてきれいなクマが出来たほど凄い衝撃だった。

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彼らは猟期に入ると鹿、ウサギ、アヒルなどを獲り、実際に食べる。そういう文化なのだ。僕には狩りは出来ないしそうした獲物を食べる気もないが、食文化は可能な限り尊重されるべきと思っている。そして、日本に入ってくるのはカリフォルニアやニューヨーク発の情報が殆どという状況で、実際にこのような光景を目の当たりにしたことは本当に勉強になった。

彼らは保守系白人でカトリックだ。この国の一大勢力だ。そして彼はアジア人への偏見などみじんもなかった。むしろ、僕ら夫婦に出会ってからインドネシアなどアジアの留学生のホストファミリーなどをしている。これが、いやこれ「も」アメリカの真実なのだ。18:00過ぎに別れを告げ、20:00にミネアポリスに着いた。

7月9日
ミネアポリスとセントポールをしばし見て回ってから
ウィスコンシン州を通り(但しミルウォーキーは通らず)シカゴに向かった。最初はきれいに晴れていたが途中凄い雨に見舞われた。

15:00くらいにシカゴに着いた。小雨だった。それは残念だったが、モーテルにチェックイン後に車窓から見た街並みからは「都会としての美しさ」を感じた。

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ふらっとイタリアンレストランに入って夕食を食べてみた。僕らには珍しいことだ。それなりに盛況で雰囲気もよかったが味はまあまあだった。

7/10
午前中街を散歩し、シカゴハンコックセンターからのミシガン湖を含む眺望を楽しんだ。美しかったが冬は氷点下20度なんだよなぁ。

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シカゴを後にし、シンシナチに向かった。せっかくだからオハイオ州に入りたかったのと、ここの名物だというチリビーンズを食べたかったのだ。しかし、モーテルに行くのに時間を食い、しかもモーテル名にダウンタウンがついていたのでそういう立地だと思っていたがそのはずれで何もない。そもそもシカゴから出るときにルート66を走るはずが全然道がわからず、いろんな人に聞いても知らず、この日は端からダメな日だった。結局少し散歩してハンバーガーを食べてさっさと寝ることにした。

7/11
シンシナチからケンタッキー州のバーボンの町と言われるバーズタウン(Bardstown)を経てカントリーミュージックの聖地、テネシー州ナッシュビルへ。バーズタウンは欧州風の街並みが見事だった。

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バーボンの工場を見学したかったが時間が合わず、いい加減に走っていたら面白いところに着いた。

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ここはリンカーン大統領生誕の地で、彼が通ったという小学校とかを見て回った。

17:00ごろナッシュビルにつき、モーテルにチェックイン後ダウンタウンへ。ライブハウスが集中する通りを歩いて、漏れてくる音を楽しんだ。

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夜、アメリカンアイドルの入賞者のライブがダウンタウンのホールでやっているという情報を得て行ってみた。これも音が漏れてくるのを聞いて楽しんだ。

2007年、アメリカ プチ一周ドライブ(その一)

2014年72日に日本から4か月ぶりに病気の猫と一緒にアメリカに戻り、最初のエントリーは2007年のこの旅行のことにした。

2007年7月4日、前月に転職を決め、次の職場で働き出す前に残りの有休を使って行くことにしたこの旅は、日数21日、走行距離11,000km、間違いなく我が人生のハイライトの一つと言える。次の職場では自分の得意なことをかなりの裁量権をもらってやることができることになっていたし、21日間ただただ旅に集中し堪能出来るなどという機会を得、僕は、そして妻も高揚していた。


この旅はカリフォルニア州サンフランシスコからスタートし、ミネソタ、ケンタッキー、テネシー、アラバマ、テキサス、ニューメキシコなどを回ってカリフォルニアに戻るという道程だった。事前にラフには決めていたけれど、何しろ21日あるのでどこにでも行けるので八割がたノープランで旅は始まった。


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4
サンフランシスコに到着し、すぐにレンタカーを駆って一路I-80を東へ。目的地はネバダ州ファロン(Fallon)。サクラメントでUS-50に入り、緑深いシエラネバダ山脈と低標高の砂漠地帯を通過し、アメリカ軍の基地があることでそこそこ栄えているFalllonのモーテル(予約済み)に夕方到着。その時ラジオからかかって今も耳に残る音楽がMaroon 5の「Makes me wonder」だった。このバンドの曲はアメリカドライブに最適。

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US-50で更に東進し、ソルトレイクシティーの南のあるプロボ(Provo)を経て、最終的に予約を取ったモーテルがあるユタ州ルーズベルト(Roosevelt)まで進む。目的はこのネバダ州のUS-50を走ることだった。US-50のネバダ東部部分は「アメリカで最も孤独な道(Loneliest Road)」と言われ、人里から次の人里への間隔が100マイル(160㎞)では済まないほど何もない。なので道フェチとしてここを通らないわけにはいかなかった。いや、素晴らしかった。

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基本US-40を使いデンバーに行く。目的はKazuo。そう、当時コロラドロッキーズにいた松井稼頭央を見に行った。砂漠から緑深いロッキーに入ってデンバーに至る景色はこれまた最高。砂漠の土色が次第に木々の緑に変わり、空の青と澄んだ風に泣きたくなる思いだった。夕方クアーズフィールドで野球観戦。大リーグの雰囲気は素晴らしい。野球を愛している感じが素晴らしい。背中にMATSUIと書かれたユニフォームを着るお客さんが多数いてびっくり。この時松井は確かに愛されていた。試合の結果は覚えていないけど。そうそうデンバーは空気が澄み快適そうな街だった。ダウンタウンを歩いただけだけど。
 
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デンバーからモーテルの予約を取っておいたサウスダコタ州ブルッキングス(Brookings)までの1100km。これは一日の移動距離として最長だった。しかしこの日のハイライトは便意との格闘。のんびりしたコロラド東部のI-76を鼻歌交じりに走っていると徐々に便意が。しかし人里がない。催してる最中に通過した2か所のサービスエリアはともに閉鎖され、淡い期待が裏切られる心理的ダメージに幾度も心折れそうになりながら、結局150㎞以上括約筋を酷使してなんとかネブラスカとの州境の町にあるサービスエリアに辿り着き、事なきを得る。マジで人格崩壊の危機だったのに横でラジオに合わせてノリノリの妻は、僕の苦悶する様子を見て爆笑していた。鬼か。

ネバダ州ノースプラット(North Platte)でUS-83に入り今度は北進。この道もすごかった。牧草とおぼしき草が生え、ところどころ白い岩石が露出する大地を貫く道路は、まるでローラーコースターのように上下する場所が長く続くなど飽きそうで飽きなかった。サウスダコタ州マードー(Murdo)I-90に入り東へ。旅は4日目。時差ボケに弱い僕はまだ睡眠のリズムがつかめず、しかも蓄積した疲れ(排便我慢のアレが特に効いた)で目が痙攣し勝手に閉じてくる。ハンカチを氷水に浸し、それを片目ずつ当てながら、夜8:00にブルッキングスに到着。死ぬかと思った。

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