アメリカという甘美な幻想

南カリフォルニアはオレンジ郡に住むオヤジです。妻共々サラリーマンでしたが、2012年10月に移住してきました。個人輸入代行やコンサルタントを生業にした後、2016年からは会社員に。移住する遥か前から積み重ねてきた様々な「アメリカ体験」も含めて文章に残すためにこのブログを書いていますが、会社員復帰以降は忙しすぎて更新は稀に。自由の国、アメリカを含めた全体主義への流れ。これを絶対に食い止めましょう!

2014年05月

日本との決定的な違い - 果てしなくいい加減

それまで「アメリカの旅行者」だった僕ら夫婦が「移住者」になったのが201210月。それからこれまで暮らしてきて、日本との決定的な違いに戸惑ったり怒ったり呆れたりしたことが随分ある。勿論「これは素晴らしい!」と感心したこともある。
このカテゴリでは、実際に暮らしてみて初めて見えるアメリカについて書いてみたい。


今回は「アメリカンないい加減さ」について書く。アメリカは日本に比べればいい加減、というのは現代の基礎知識なので移住する前からわかっていたが、移住後の生活インフラを整えるに当たり、問題なくサービスを開始出来たのは日系の携帯電話だけだった。あとは全て、大なり小なり問題があったのである。

以下は移住から45日以内に起きた「アメリカンないい加減」である。慣れない日本人がどれほど困った目に遭ったか、全て完全ノンフィクションなので是非驚いて欲しい。


01)家のプラグ

移住前に事務所兼自宅として購入した1990年築のコンドミニアム。ここの電気コンセントがゆるゆるで、20数個あるうち半分以上がプラグを挿しても普通に抜け落ちる。

02)家のキッチンの水漏れ

シンクから水が普通に漏れている

03)家のトイレ

タンクに水がたまったあと、徐々に抜けて中が普通に空っぽになる

04)前の住人が残してくれた電子レンジ

5分連続で使うと電気が普通に切れる。何故か1時間後に普通に電源が戻る。

 

05)修理業者

上記を修理業者に頼んだが、連絡が無茶苦茶。朝7時前に自動で電話がかかってきて出ると切れる。かけなおすと「そんな電話は知らない」と言われる。しかし同じ番号からまた普通にかかってくる。

 

06)ベッド通販

IKEAのオンライン通販で買ったが、「24時間以内に重要なことがあるから連絡する」とデフォルトで購入確認メールに書いてある。なのに48時間待っても連絡が来ず、メールしても返事がないので近くのIKEAに行ってみると「通販のことは管轄外」と普通に言われる。

 

07)ベッド通販2

「重要なこと」が何だか分からないままいたら、数日後普通にベッドが届く。

 

08)管理費支払い

金曜の夜に管理費をオンラインで支払ってみると、「金は受領したがメルアドに問題があり確認メールが送れない」、とPC画面に出る。メールを入れて確認をお願いする。

 

09)管理費支払い2

翌週月曜になっても返事がない。火曜もない。水曜に普通に「受領しました」とだけメールあり。

 

10)クレカ

アメックスのクレジットカードを作れとCostcoの人に言われて、「経験上言うけどクレジットヒストリーがアメリカではまだないので認めてもらえないですよ」とこっちが言うのに受付のおばさんは「大丈夫よ!」とえらく明るく勧めてくる。トライしてみたが普通に却下される。

 

11)クレカ2

店員がAMEX側に再度「他に方法はないのか」と聞くと、銀行の残高証明をFaxで送ればいいよ、と言われる。実行後2週間待つと、Amexから封書が届く。「今回のお申込は却下されました。もしもう一度お申込みされたい場合は銀行の残高証明を添付し以下の書類をFAXしてください」と書かれている。普通に無限ループに誘われる。

 

12TV・ネット

テレビとネットを使うべく、モーテルからオンラインでA社の75ドルのセットのオーダー手続きを行う。最後の画面で「447ドルのデポジットが必要」と出るので、ナビゲーターに意味を聞くと「アメリカでのクレジットヒストリー等がないと最初にデポジットが必要」とのこと。しかし「このデポジットは返還しません」と普通に言われて画面を閉じる。

 

13)ネット2

テレビとネットのバンドルで89.99ドルのプランをB社にオンラインで頼んだのに、最初の請求書に121ドルとある。オンラインで手続きした際の様子はキャプチャしていたしカスタマーサポートとのチャットも保存していたので抗議したが、普通に却下される。

 

14)車

やっとレンタカーから抜け出し車を買う。HONDAのシビックHYBRID2005年製だが、価格は10000ドルと日本の相場観では信じられないくらい車の市場価値は落ちない。購入当日、スーパーで知らぬ間に車体右側を普通にぶつけられる。

 

15)配送会社

アマゾンなどで買ったモノを配送会社のドライバーが玄関前に普通に無言で置いていく。

 

16)備え付けの食器洗い機

使う習慣がなかったのでずっと使わなかった食器洗い機を使ってみる。するとドアの隙間から普通に泡がワラワラと出てくる。

 

17)火災感知器

ベーコンエッグを焼いていたらいきなり火災警報機が鳴る。その後豚肉を焼いても牛肉を焼いても大丈夫だったので再度ベーコンエッグを焼いたら普通に警報機が鳴る。どういう仕様だ。


いかがだったろうか。このようなことがアメリカでは普通に起こり、何もわからない日本人が一人で一個一個解決していったのであるが、渦中にいる間の不条理感は半端ではなかった。でもまあ、今は「アメリカならこのくらい普通」と思えてしまっているのだけれど。

グリーンカード当選後の手続きで「重要」なこと

まずお断りしておくが、あなたが代行屋さんを使わずグリーンカードへの応募や取得の手続きを考えているのなら、これからの説明はあまり役に立たないはずだ。というのは、グリーンカード申込時もそうだが、当選後も妻は代行屋さんを使っていたので、そこの指示で申請書類等は用意したからだ(なお、普通はどうなのか知らないが、その代行会社さんは自分の会社経由での当選者で、かつ「複数年利用契約」を結んでいた場合には基本無料でグリーンカード取得手続きをサポートしてくれた)。

次に、「何を集めてどうするか」というマニュアル系の話も期待しないで頂きたい。それも代行屋さんの指示に従えばいいし、僕自身も相当記憶を失っているからだ。それじゃ何を書くんだ、というと、「これは体験者じゃないとわからない」と思うことを書くのである。その辺りをご了解のうえお読み願いたい。

◆書類は正確に
間違いがあった場合に合否にどれほどの影響を与えるのかは知らない。間違えば当局に連絡して訂正することも可能だ。しかし、「アメリカのいい加減さ」は侮らない方がいい。日本の常識は通用しない。面倒が起きた時、そのストレスはハンパない。だから、書類は慎重の上にも慎重に作り、証明書類もきっちり余裕を持って揃えたい。

◆無犯罪証明書
アメリカ永住には、犯罪歴がないことを証明する必要があり、これを警察で発行してもらうことになる。では、少年(高校)時代に無免許で補導され家裁に行ったことや、深夜徘徊で補導されたことは記録に残るのか?また、大人になって免停になり罰金8万円を支払った50kmオーバーの速度超過は記載されるのか。

正解は、記載されない。僕が永住権を取れたことが何よりの証拠だが、開封禁止の証明書を開封せずに見て「犯罪歴なし」と書いてあるのを事前に確認していた。開封せずに中を読むには、明るい光に向かって封筒をかざす。

◆大使館面接
日本語も可、みたいなことをどこかで読んだことがあったが、全編英語だった。僕が聞かれたのは書類記載内容が正しいかどうか、アメリカに行ったらどこに住むのか、仕事は何をするつもりか、などだ。英語の試験ではないので細かい文法がどうのとかは関係ない。相手が言う内容をあなたが理解し、あなたの答えを相手が理解すればいい。その一点に尽きる。
なお、このとき合格するとパスポートに永住ビザ渡航許可証を貼ってもらえる。これを持って6ヶ月以内にどこでもいいからアメリカに入国すること。そもそも許可証の期限が6カ月なので。

◆グリーンカードとSSNの受領
グリーンカード(以下「GC」)の発行手続きは、上述のアメリカ入国をもって自動的に始まる。引き渡しは郵送で行うが、送り先の住所がアメリカに限定されるという不可思議なルールがあるので、受け取り方法を大使館面接の前に確立しておかないといけない。僕は、たまたま知り合いから紹介頂いたLA近郊在住の日本人の方(以下「Sさん」)に住所を貸してもらったが、普通代行会社がそれ用のアドレスを持っていて、有償で受領・転送サービスを行っている。

アメリカ入国時、在日本アメリカ大使館から事前にもらっている封筒を入管審査官に提出するのだが、この時の担当官がいい人だった。そしてそれは日本への好意が基になっていた。何故日本に好意を持つのか。それは書類がわかりやすく整理されて封筒に入っているからだ。入管審査官にとってこれほどまでに処理がしやすいように整理されている書類は日本からのモノしかないそう。アメリカ大使館の書類封入係のお姉さんに感謝したい。

ところで、GCは永住権所有を証明するビザだが、
SSN(Social Security Number:社会保障番号)は元々は徴税のための識別番号で、今では「あなたをあなたと識別する身分証明書」の位置づけで、グリーンカードホルダーだけでなく有期のビザホルダーにも発行される。SSNがないとクレジットカードを作ったり電話に加入したりネットを引いたりといった基本的なことが出来ないから普通はGCとSSNは同時に申請する(別個でも申請できるようだが普通別個にする意味はない)。

入国日から郵便が届くまでは1ヶ月~2ヶ月だと思うが「アメリカのずさんさ」に遭えば、その限りではない。僕の場合は3月2日の入国で、3月13日にSSNが届き、3月26日にGCが届いた。今回はアメリカのずさんさに遭わなかったわけだ。近々アメリカに行く用があるなら取りに行けばいいし、ないなら日本に郵送してもらう。その際はEMSを使うこと。PMIは追跡番号がない。詳しい違いを覚える必要はないのでとにかく「追跡のあるEMSで送って」とお願いする。

ちなみに僕は、SSNはSさんに郵送してもらい、GCは4月22日にアメリカに行ったのでその際にお会いして手渡しで頂いた。郵送代と心ばかりの謝礼はお会いした時ではなく、3月中に銀行振込で行った。彼も僕も既にUnion Bankの口座を持っていたからだし、4月の計画が確定する前でいつ会えるかがまだわからなかったからだ。

◆総括
ということで、代行屋さんのサイトなどを読めばわかることやお願いしておけばいい事はここには書かなかった。書いたのは:

1)書類は正確に作成し、証明書類はなるべく早く集める
2)少年時代の補導歴や免停などでは無犯罪証明書に記載されない
3)大使館面接は日本語ではなく英語Onlyだと思って臨む
4)グリーンカード受領のためには:
  └①アメリカでの受取住所を大使館面接前に確保する
  └②SSNも同時に取得しておく
  └③日本に郵送してもらうなら追跡付きのEMSで送ってもらう

ということだ。

グリーンカード当選と僕の個人的背景

2014517日にこのブログを立ち上げてから13日間、ここまでは僕が経験してきたアメリカ旅行についてのみ一気に書いてきたけれど、一旦2006年の旅行までで一区切りにして、ここからは色々なテーマで書いていきたいと思う(旅行ブログはあと07年、09年~11年の4年分を書けば終わる)。

本日は「アメリカに住む」というカテゴリの初っ端として「グリーンカード」を取り上げたい。
記憶を辿ると、僕がグリーンカードを当てるまでにはこんな経緯があった。 

 2007
年、妻が代行屋さんを利用して応募したらしい(本人も記憶曖昧)
 2009
年、妻が代行屋さんを使って応募
 2010
年、同上
 2011
年、同上も、5月の抽選で落ちたが当局にミスがあり、7月に再抽選があり当選

2007
年の応募時は、妻もどうしても当選したい気はなかったらしい。2009年から本気で応募し、2011年に当選した。計算したら日本人の当選確率は0.6%くらいだった。僕は妻が応募していることは当選まで知らなかった。この時妻名義ではずれ、僕名義で受かった。勿論夫婦なのでどちらかが当たれば自動的にどっちもグリーンカードがもらえる。

*****


僕は20077月にFM局を退職し、8月から大いなる希望を持って音楽配信会社に転職したのだけれど、入社してみると自分が行うはずだった業務と何ら関係のない仕事を任されることになった(端的に言って、違法だ)。それから失意と怒り、そしてストレスは極限まで達し、3ヶ月後には年齢的にも再就職はないと考えて行政書士として独立しようとまで思っていたのだけれど、12月に胃癌が見つかって全ての悩みも希望も中断した。

結果的に早期だったしいまだにピンピンしているが、その時は死ぬかもしれないという思いと共に、二度目の人生をやり直すなら何をしたいかじっくり考える機会を授かった。職場復帰後、最初の約束に近い業務を任されて一旦心も平穏を取り戻していたが、200811月に門外漢の部門へ再度異動を打診された時(それは昇進でもあったのだけど)、何かが切れた。

僕は成果を出したくて転職した。会社も僕の知識、経験、能力を吟味した結果、必要だと思って採用したのではないか。僕がやりたいと思ったことは、すなわち会社がやってほしいと思ったことだったはずだ。そしてそれは、これからますます重要性が高まることだったはずだ。だから、目先の人材不足を門外漢の僕で補おうとする考えは明らかに間違いだと僕は思った。しかし、上が決めればそれに従うか、従うのが嫌なら退職するしかない。そして僕は、退職の方を選んだ。

この時、もし出来るのなら英語力を活かした行政書士かアメリカ商品の輸入代行屋のいずれかで生きていければと思った。けれど、「安定」を失うことを恐れる妻の親(気持ちは分からないではない)が反対するし
現実味はやはり薄かったので、結局また人事として20092月から会社勤めをすることになった。ところがこれで終わらない。このとき既に44歳、リーマンショックの爪痕も生々しい時だったので「最後の転職」になるはずだったが、残念ながら体を壊してしまったのだ。きっとターニングポイントに来ていたのだろう。


静養後に再就職はしたが、「英語力を活かした行政書士かアメリカ商品の輸入代行屋のいずれか」をやる準備は地道に続けた。そして2011311日が来た。胃癌を患った時に芽生えたのは単に「淡い夢」程度だったが、大地震が生み出した過酷かつ不条理な現実の中でそれは「実行すべきもの」に昇華した。僕は妻の両親に今度こそ会社員を辞めることを伝えた。今度は異を唱えることはなかった。それから4ヶ月、グリーンカードが当たったことを知った。行政書士は消え「アメリカで代行屋」をやることになった。

*****


今49
歳の僕がアメリカに住んでいるのはこんな変遷をたどってのことだ。おわかりのように、僕にとっては年齢がどうだとか安定がどうだとかより遥かに重要に思えることがあり、それが即ちアメリカ移住で、それが叶うなら全てを捨ててもいいという覚悟を持ってこうしてアメリカにいるし、その思いは本物だったと自負している。でも、それはここまで長々書いて来て皆さんに伝えたかったことではない。安定を望むことは当然だし、何ら問題はないのだから。

日本人のグリーンカード当選者に辞退がかなり多いらしいけれど、実際に当選してみると日本で築いたものを手放してアメリカに住むなんてとてもじゃないが出来ないとか思うらしい。そんな砂糖のように甘い認識でグリーンカードに応募してはいけない、などと上から言う気もない。だって人には事情があるのだし。

じゃぁなに? いや、覚悟を持ってようと、覚悟がなかろうと、日本で築いたものは捨てられないということで諦めようと、人はそれぞれだから好きにすればいい、と言いたいだけ。ただし、なにしろ人は死ぬ。僕などは早期発見できなければ5年前に胃癌で死んでたかもしれない。死ぬ前に試したいことを試せるなら、試してから死ぬに越したことはない。しかも「死」なんてそう思った通りには来やしないのだし。

とにかく、死なない限りまた何かやれる。いつも「死」を最悪のケースにして人生を想定できると、結構鷹揚に生きられる。「明日の会議でへますること」を最悪のケースと思うなら、命がいくつあっても足りない。失うことを恐れる気持ちはわかるが、「命があればまあいっか」という考えのほうが人生は遥かに楽しめ、リカバリーも容易に効く。僕の代行業だって
カツカツで、明日どうなるかも正直わからないけれど、死ななきゃ何とかなると思うので辛くない。この感覚は、是非ケリークラークソンの「Stronger」を聴いてイメージしてほしいと願う。


 どんなに辛いことも、死なないならOk。それは自分を強く、堂々とさせてくれる
 一人でいることがいつも孤独、そんな法則はどこにもないのよ
 どんなに辛いことも、死なないならOk。それは自分を戦士にし、足取りさえ軽くなる
 あなたが御仕舞になったからって私も終了ってわけではないのよ
 どんなに辛いことも、死なないならOk。それは自分を強く、強くする
 そう、これは私に向かって言っているの。あなたはどうでもいいわ
 どんなに辛いことも、死なないならOk。それは自分を強く、堂々とさせてくれる
 あなたが御仕舞になったからって私も終了ってわけではないのよ


2006年、ニューオーリンズからLAへ(その五-データ集)

1.全行程

06-15


2.航空会社、レンタカー、宿泊地

項目

内容

日時

2006年7月5日~16日

航空会社

Unitedエコノミー(シカゴ経由)

レンタカー

ダラー/Dudge Stratus4

走行距離

3720マイル(6000km

宿泊地

7/05 Best Western (La Place, LA)
       06 Best Value Inn (Texarkana, TX/AR)
       07 Days Inn (Snyder, TX)
       08 Best western (Alamogordo, NM)
       09 Best Western (Santa Fe, NM)
       10 Ramada Limited (Green River, UT)
       11 Candlewood Suites (Las Vegas, NV)
       12 Vagabond Inn (San Luis Obispo, CA)
 13-14 Ho氏の御宅 (Los Angeles, CA)
       15 LAXより東京へ 


3.全費用(1ドル=約118円)

航空券

\9,360 / 2人 (マイレージでカバー)

旅行保険

\12,990 / 2人

レンタカー

$1,155(保険フル装備、乗捨て代含む)

宿代

$694.3510泊。2泊は無料。一泊当たり$86.8

ガス代

$355.00(いきなりガロン3ドル時代に突入!)

食費等

\35,000

合計

\400,000

 

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その四)

この日は「グランドサークル」と呼ばれる「国立公園ばっかりの場所」を訪れた。

06-12
Green River -- 800km+α --> Las Vegas (NV)

その前にMUST曲「Green River (by CCR)」を聴いたのは言うまでもない。そして公園に行くまでのUT-24、これが本当にいい道だった(道路と自然が互いに引き立てあい、いい味出している道のこと)。

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轢かれても自己責任ということでお願いします。よい子は真似しないでください。

キャピタルリーフNP、ブライスキャニオンNP、そしてザイオンNPの3つを見たのだが、個人的にはザイオンがよかった。「走って見る際に最適な風景」という意味で一番優れていた。

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ブライスキャニオン

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ザイオン。道路が楽しい。

夕方ラスベガスへ到着。3年ぶり3回目だ。ギャンブルしないのに何故か好きな町だ。シルクドソレイユの「Beatles Love」の看板を見て、いつか観たいなぁと心底思ったものだ(2011年にやっと観れた)。

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ホテルミラージュのLoveの看板

前夜ラスベガスのモーテルで初めてピザとサラダを注文してみたら、案外旨かったことに気を良くしてよく寝れたので、軽快に出発。

06-13
Las Vegas -- 730km --> San Luis Obispo (CA)

まずはNewberry Springsへ向かった。映画バグダッドカフェのあのカフェがある町だ。

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実在するバグダッドカフェ

聴く曲は勿論、同映画の主題歌「Calling You」(by Jevetta Steele)」だ。

 ベガスからどこに行くともしれない砂漠の道
 これまでいた場所よりはマシなところにつくだろうか
 コーヒーマシンが壊れて修理が必要になってしまった
 あの曲がり角にあるコーヒーショップで
 嗚呼、私はあなたの名前を呼んでいる。聞こえる?呼んでいるのよ。

こういう曲をこの場所で聴いて感動しないわけにはいかなかった。

ベーカーズフィールド周辺は農業地域で、日本とは規模が違う畑が延々と広がっていた。行こうとしていたのはそこから少し西にある下の写真の場所だった。

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ジェイムスディーン・メモリアル・ジャンクション

ここは州道41号線と46号線が交差する場所で、ジェームスディーンが交通事故死した場所だった。ジェームスディーンは1955年に亡くなっており僕の世代でさえないけれど、アメリカのポップカルチャーになくてはならない人だと思い、敬意を表しに来たのだった。

そしてサンルイオビスポで一泊し、翌朝LAに行くと僕らはグラミー賞受賞のギタリスト、ダニエル・ホー氏夫妻にお会いし、厚かましくも2泊させてもらった。2006年の旅(その一)で書いたように、2005年12月に仕事で彼に楽曲制作を依頼したのが縁だった。彼は2006年2月にスラックキーギターを弾いて参加されたアルバムでグラミーを受賞しており、恐れ多い訪問となった。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その三)

サンタフェには15:00くらいについた。当時アメリカに住むなんてことは本気で考えることではなかったが、「どこなら住んでやってもいいか」みたいな高飛車な言い方で半ば冗談で考えることならもう何年もやっていた。そんな僕にとって、Santa Feは住んでみたいと思わせてくれる街だった。

空が美しかった。建物の色に気を配って統一感があった。ネイティブアメリカンの文化が残り、スパニッシュが残したキリスト教文化との融合が美しかった。それがサンタフェに抱いた印象だった。

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聖堂。背景の青とよくあう。

ターコイズのジュエリーを売る露天商がズラリ沿道に並んでいた。ここはこの種の装飾品のメッカだ。

06-11
街並みの一こま

サンタフェという名前はあまりに有名で、観光地としては「下世話」になっているものと思っていたが、夕方までたった4時間ほど市内を見ただけの印象とはいえ、ここは再訪すべき町だと思えた。

翌日はユタ州のGreen Riverに行く。またロッキー越えだ。まあ東から西海岸に行くには基本避けて通れないし、砂漠の前に美しい山並みを走るのは楽しいのでいいのだが。

06-10
Santa Fe -- 800km --> Green River (UT)

Taos(タオス)~Taos Pueblo(タオスプエブロ)は、世界遺産であるネイティブアメリカンの古代集落がある場所だ。この壁の土色がサンタフェの統一色になっていて、青空との相性が非常に良い。

Taosからしばらく行くとコロラド州だ。夏山の緑はやはり美しく、清涼な空気を楽しみながら走った。やがて2003年の旅行でも使ったUS-50に入り、実際そのときに宿泊もしたMontroseなどを経てI-70に出、17:00頃Green Riverに到達。

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ワイパー液がなくなって、ロッキー山中の公園でペットボトルで注ぎ足すなど工夫をした

グリーンリバーの町は閑散としていて、メインストリートにも人影がなかった。僕らはモーテルにチェックイン後、車をゆっくり進めてスーパーを探したのだがそれらしきものは何もないまま通りが終わりに近づいた。どこかで転回を切ろうかとした時、後ろからパトカーが。

「免許証見せて」
「はい。あのぉ、私何か悪いことしたんでしょうか?」
「うん?君は左側を走っていたんだよ」

僕も妻もスーパー探しに夢中になり、対向車がいないこともあって左車線を走っていた。二人とも走っている間は全然気付かなかった。彼はSUVに乗り、髭にグラサン、そしてデカかった。アメドラでおなじみの典型的な田舎の警官だった。

「あ、そうでしたか。すみません」
「何これ?日本から来たの?」
「はい」
「ふーん。なんか薬とかやってない?」
「めっそうもないです。日本は左側を走るので、ついつい気付かずに左を走ったようです」
「ふーん。おい、それは何だ?」

警官は、それまで見たことのない異様な黄色い物体がダッシュボード付近に置かれているのを発見した。さすがは警察官だ。見逃してはくれない。

「あ、こ、これは蜂蜜キンカンのど飴です。えっとキャンディーです」
「ああん、キャンディー…?」
「おい、その袋は何だ!?」

有能な警官の彼は、妻の足元に隠すように置かれた白いビニール袋が、モノが入っていて異様に膨らみ、くちが無造作に縛って閉じてあるのを見逃すことはなかった。 

「こ、これは、ご、ごみです」
「ごみ…だと?ちょっと見せてみろ!」

彼がくちを開けて中を覗き込む。

「クンクン。ウープス!本当にゴミじゃないか!」 

というわけでDUI(「ドライブ・アンダー・インフルエンス」の略で、麻薬やアルコールの影響下で運転することをいう)の嫌疑は晴れ、警告書にサインするだけで解放された。やれやれ。

ところであの警官は、この車の仮ナンバーがとっくに期限が切れていたのをどう思ったのだろうか。見逃したのか、気付かなかったのか。もしその件で今後警官に止められたら…と考えて少しブルった。なんでそんなナンバーの車に乗っているのか、日本語で説明することさえ出来ないのだから。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その二)

翌朝の道程は、スナイダーからニューメキシコ州のAlamogordo(アラモゴード)まで。この日は珍しく見たい場所が2か所もあった。

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Snyder -- 650km --> Alamogordo (NM)

 Carlsbadには世界遺産の「カールズバッド洞窟群国立公園」がある。そう、洞窟だ。何故写真がないかというと、暗い洞窟でフラッシュは憚られたからだ。

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「自然の不思議」に事欠かないアメリカを再認識し、Roswell(ロズウェル)へ。

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ここは1947年にUFOが墜落した(ことになっている)町で、上の写真のようにそれが観光の目玉になっているし、NHKでも放送された宇宙人モノ「Roswell」はまさにここが舞台だ。我々はこのドラマとその主題歌「Here with Me(Dido)」が大好きだったので是非来たいと思っていた。UFO関係の演出は結構チープだったが、住宅地としての小奇麗さが意外だった。

ロズウェルを出てUS-70を西に向かうと前方に山が見えてきた。大平原もとうとう終わりを告げるのだろう。夕方アラモゴードに到着。

翌朝アラモゴードの宿から向かったのはホワイトサンズ国立公園だった。ここも旅前から楽しみにしていたところだ。

06-09
Alamogordo -- 580km --> Santa Fe (NM)

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ホワイトサンズ
 
石膏できた雪のような砂は幻想的で、耳の血管を流れる血の音以外聞こえるものがない静寂は驚異的だった。他の砂漠とは一線を画した美しさは正に圧倒的だった。一方、原子爆弾は1945年7月16日に初めて起爆されたが、その実験場がアラモゴードにあった。その後一カ月もせず、その成果は広島と長崎で試された。どんな国家にも汚点はあるだろうが、この原爆による民間人虐殺はその中でも最も醜いもののひとつかもしれない。

一旦Las Cruces(ラスクルーセス)という町に出てからひたすらI-25を北上。悪い意味での同じような景色がずっと続く道だが興味深いことが二つあった。一つは「Truth Or Consequences」という町。「真実、または帰結」とでも訳すべき名前だ。標識で町名を発見したとき宗教がらみではないかと思い、少し怖くて立ち寄らなかった。後に調べたらこういう由来だった。

― もとの市名はホットスプリングス(Hot Springs)といった。1950年、ラジオの人気番組であった「トゥルース・オア・コンシクエンシーズ」の司会者、ラルフ・エドワーズ(Ralph Edwards)が「この放送のあとに地名を『トゥルース・オア・コンシクエンシーズ』に改名した町で番組の放送を行なう」と公言した。全米から立候補が集まり、その中からホットスプリングスが選ばれ、市名をトゥルース・オア・コンシクエンシーズと改めた ― (ウィキペディア日本語より)

そして、僕がドライブ中に聞いていた全国ネットAM局の政治トークショー。この時は金正日が核実験をやったばかり。この司会者は激烈なトーンで彼をこき下ろしていた。Kim Jong Ilの綴りと発音をもじって「Kim Jong Mentally Ill(キムジョン精神病)」と何回も繰り返していた。こんな司会が全国放送であっていいのか、と軽いカルチャーショックを受けた。

2006年、ニューオーリンズからLAへ(その一)

前年6月上旬に行ったアメリカ旅行はトルネードシーズンだったことで雨にやられる日が多かった。この年はそれを反省材料にしながら「より遠く、より長く」をテーマに旅程を組んだ。

ところで、僕は相変わらずFM放送局にいたが、前年から系列の音楽出版社に出向していた。昔作詞作曲家として音楽作品を生み出す現場にいた僕は、同時に著作権を独学で学んでいたし、その後人事・法務の仕事や法律の国家資格試験などでその知識が肉付けされていたので、新しい著作権ビジネスの立ち上げや著作物の新規開拓をやりたいと上層部に申し出たら、人事法務系の管理部門との兼任を条件に認めてもらえたのだった。

この業務を通じ、前年12月に面白い仕事をした。LA在住のスラックキー・ギターの名手にしてボーカリストのDaniel Ho氏を起用して、局の大スポンサーC社のためにカバー曲集を作ることになったのだ。僕はプロデューサーとしてLAに出張し、その時Ho氏にお会いした。それが縁で、僕らの今回の旅の最終地LAで、Ho氏の御宅に泊めて頂けることになった。

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7月5日、旅はルイジアナ州ニューオーリンズから始まった。

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さすがデキシーランドジャズの発祥地。空港でミュージシャンたちがお出迎えしてくれる。

シカゴ経由で16:00に到着後ダラーで車をチェックアウトし、予約済みのモーテルへは18:00過ぎに着いた。ここで"Sold in a market down in New Orleans"という歌詞を含むローリングストーンズの「Brown Suger」をカーステでかけたかというと、かけた。あまりにベタだけど、しないと後悔すると思ったから。

06-01
New Orleans (LA) -- 800km --> Texarkana (TX/AR)

レンタカー屋では、仮ナンバーでしかもその有効期間が切れている車をあてがってくるというアメリカンないい加減さがいきなり炸裂。でも大丈夫だと言うのでそのまま乗ったこっちも結構いい加減か。


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有効期限6月25日と書かれた仮ナンバー。この日は7月5日であった。

翌日まずはニューオーリンズ市街を車で見学した。前年のハリケーンカトリーナが残した爪痕は一部にまだ生々しく残っていたが、写真を撮ったりすることがなんだか不謹慎なような気がして自重してしまった。

ニューオーリンズを出ると、僕らはNachez Trail Parkway(ナッチェス・トレイル・パークウェイ)という道路 を走ってみた。ミシシッピ州ナッチェスからテネシー州ナッシュビルまで続く全長715kmの道路で、1700年代から使われている古いものだ。整備と保全は道路局ではなく公園管理局がやっているそうだ。僕らはそのうちのナッチェス・フォートギブソン間を走っただけだったが、確かに趣があった。そもそも乗用車しか乗り入れられないという道路だから、よほど保全に力を入れているのだろう。この日の宿はTexarkana(テキサカーナ)。テキサスとアーカンソーの州境の町だ。名前が面白いということだけで選んだ。

*****

翌日はオクラホマに立ち寄り、ダラスを見て、Snyder(スナイダー)という恐らく誰しもがノーマークの田舎町に泊った。

06-03
Texarkana-- 850km -->Snyder (TX)

まずここで言わなければならないのは、オクラホマから南下してテキサスに入った最初の町、Denison(デニスン)で食べた「テキサスダブルワッパ―」が史上最高のハンバーガーだったことだ。

06-04

ダラスではケネディー大統領暗殺関係の資料館に寄った(なかなか興味深かったが写真がないのでお見せできない)。また、この一帯を走っていてやたらに聞いた曲が「Jesus, Take the wheel(Carrie Underwood)」だった。アメリカンアイドル優勝者、キャリーアンダーウッドの曲で、前年秋にリリースされたのだという。プレーリーの田舎道は、遮る物のない開けた視界の中、緑の農耕地をのんびり走る感じになるが、そこでもカントリーはあう(というかこの辺がメッカだ)。そこにこの曲が何度も流れれば、忘れようにも忘れられなくなろうというものだ。

その後I-20をひたすら西に進み、US-84でSnyderに到着。なんだ、走ってばかりではないか、とお嘆きの諸兄。その通り、走ってばかりです。一都市に何日かステイしてじっくり楽しむ旅も勿論いいと思うものの、この当時は「どうせ10日前後の有休でじっくりもくそもあるか」と思っていたので。広大なアメリカの未踏破地帯を少しずつぬり絵を塗るように染めていく「我々流」もこれはこれで非常に楽しいのです。

2005年、ナッシュビルからシアトルへ(その四-データ集)

1. 全行程
05-13

2.航空会社、レンタカー、宿泊地

項目

内容

日時

2005年6月1日~11日

航空会社

Unitedエコノミー(シアトル経由)

レンタカー

アラモ/Pontiac G6

走行距離

3200マイル(5150km

宿泊地

6/01 Sleep Inn (Nashville, TN)

02 La Quinta (Columbia, MO)

     03 MicroTel Inn & Siutes (Sioux Falls, SD)

       04 Motel 6 (Rapid City, SD)

       05 Days Inn (Butte, MT)

       06 Hampton Inn (Portland, OR)

  07-09 Best Western (Tukwikla, WA)

     10 SEATACを発ち11日日本へ帰国


3.全費用(1ドル=約110円)

航空券

\218,140 / 2

旅行保険

\7,450 / 2人

レンタカー

$1,036.91(保険フル装備、乗捨て代含む)

宿代

$717.699泊。一泊当たり$79.70

ガス代

$240.84(ガロン2ドル前後の時代!)

食費等

\50,000

合計

\500,000


2005年、ナッシュビルからシアトルへ(その三)

また出会いがあった。I-90を西に向かっていると、Butte(ビュート)という町で急に激しい雹に見舞われた。車が凹みそうな勢いでこれ以上進みようがないと判断し、その町の手近なモーテルにチェックインした。エントランスのそばの喫煙所でタバコを吸っていると白人の小さな男の子がミニカーを手に僕に何かを言いながら近づいてきた。

CIMG0583

何を言っているのか殆どわからなかったが、適当に構っていると母親がやってきた。ミネソタ州ブレイナードに住むカーラ、トム、ジョーイ、アニーの4人家族は休暇を利用してカーラの親の住むシアトルに行く途中だった。僕らと同じく雹の影響で進むのを諦め、ここに泊ることにしたのだった。

トムは木工職人兼電気製品の設置担当をし、カーラは地元のカレッジの事務で、5歳の息子と2歳の娘がいた。色々話したけれど、僕がラジオ局に勤めていると言ったらトムが興味しんしんで「出力はどのくらい?」とか聞いてくる。「そっちか!」という感じで深イイ話しは特にはなかった。最後にデジカメで上の写真を撮り、日本に帰ってからメールで彼らに送った。これが縁で僕らは2007年にカーラ達の家を御邪魔することになる。そして今もFacebookなどで互いの消息を確認し合っている。

翌朝、このままシアトルに行くかどうか迷ったが、まだ行っていないオレゴンを残してしまうことになるのし、どうせならとポートランド経由でシアトルにいくことにした。

05-11
Butte -- 1000km --> Portland (OR)

何しろ行程は1000kmあるのでガンガンに飛ばした。まず西北西に進んでアイダホの北端を通過するとワシントン州に入った。南西に進路を変えコロンビア川にぶつかるとオレゴンだ。途中一か所だけ寄った場所は、この川沿いに「Louis & Clark」の文字を発見した所だった。

1800年代初頭、彼らはジェファーソン大統領から「貴殿の任務は、ミズーリ川とその主流にかかる沿道、さらにコロンビア川、オレゴン川、コロラド川ほか太平洋との連絡水路を探索し、大陸を最も短い距離で横断、かつ通商を行う目的で通行できる陸路を発見すること」との命令を受け、太平洋目指して通行可能なルートを探索していた。そのルイス&クラークの歩いた場所が下の写真のあたりだった。

CIMG0590
映画「スタンドバイミー」を彷彿とさせる風景だった。

 ポートランドには18:30に着いた。モーテルを探してチェックイン。1000kmは効く。堪える。でも楽しい。アメリカで暮らせたら運転手もいいかも、などと思った。

翌日はポートランド市街を見てみたが、またも雨だった。小じんまりした街で印象は悪くはなかったが雨だけはうんざりだった。

CIMG0613
結構有名だというポートランドのバラ園

そういえばオレゴン州南部のメッドフォードに住んでいたメル友・ナンシーは、来る日も来る日も雨という天気に「鬱病になりそう」というメールをくれたのを最後に音信不通になっていた。僕は本当に雨が嫌いだ。それなら灼熱の砂漠がいいのだ。だからここには住めない。そう思った。

そしてシアトルに来た。
05-12
Portland -- 250km --> Seattle (WA)

ショッピングや名所訪問(Sleepless in Seattleのロケ地巡りとかセイフコフィールドに行ったりとか)などをして3日間楽しんだ。シアトルも晴れたり降ったりを繰り返した。いい街だったが僕には向かないところだった。

CIMG0653
スタバ第1号店

 CIMG0663
「シアトルの眠れない男」がよく来る設定の店

CIMG0683
恐らくBellevueから見たダウンタウン
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